商品の陳列と選択肢

人間の心理として、選択肢が多いと判断に迷い、結果的に何も買わないということがある
例えば、スーパーである商品の販売に力を入れるべく、今まで3種類の商品を置いていたものを7種類置くと、お客はどれを買おうか判断に迷い、興味を抱きつつも結果的に何も買わないという行動にでることがあるという
逆に2種類に絞り込んで並べると、売上は前にも増したという


言われてみれば自分にもあてはまる
例えば音楽
いらないLPやCDは処分してしまっているので、家にあるのは基本的に好きな曲ばかりだ
それでも曲数で言えば数万曲はある
いま音楽を聴きたいと思い、どれを聴こうかとうきうきしながら棚を眺めても、いや今はこの曲じゃない、いやこれでもないと、なかなか決まらないときがある
LPやCDを買い始めたころは、数枚しか持っていなかったため、迷うことなく聴き始めた。
しかし今は同じ曲でもなかなか迷う
この曲も聴きたい、これも聴きたい、いやこれも…と永遠に続く
全部好きなものばかりなのだから、どれでもいいといえばいいのにだ
選択肢が多くなった結果、本末転倒なことになっている


言い換えれば選択肢が多くなるにつれ、目的と手段が入れ替わってしまうとも言える


本来選択肢が多いことは好ましいことだと思う
多ければ多いほど比較の対象が広まり、より多くの情報判断が可能だからだ
情報は基本的に多い方が好ましいと思う
アンケートだって母体数が多ければ多いほどより価値のあるものとなる
しかし、情報は多ければ常に好ましいかと言えばそうではない
自分にとって必要のない情報というものは増えては困る
時間は有限なのだから、必要のない情報に接している時間は必要な情報を接しうるための害悪でしかない
情報は多ければ多いほど、メリットが生まれるが、その裏に同時にデメリットも増殖していく


もし人間の脳がコンピューターのように、二進法の判断をし、極めて数学的な判断しかしないならば、情報が多くても、何ら困らないと思う
なぜなら二進法的判断ならば、二つを比較したときに判断の価値基準の高い方を選択すればそれで済むのだから
けれども人間はなかなかコンピューターのように数学的には判断できない
常に判断に迷いが生じる
価値基準は無限に出てしまう
迷うことでいつのまにか本来求めていた結果を失う
どれを買おうかな、これにするかあれにするか、うぅん、今度でいいや、みたいな


その意味では、人間の行動は常に不合理なものとも言える
不合理な判断
不合理な行動
それが人間の人間たるゆえんなのかな


映画見たくなったぞ度 ☆☆☆
うぉうぉぉ〜と歌っちゃう度 ☆☆☆☆☆
シンプルだけどもクドいかも度 ☆☆

偶然性と親密

誕生日が自分と同じ人に出会ったり、有名な人が自分と同じ誕生日だったと知ったとき
多くの人は、「おっ、同じ誕生日だ」と何かしらの感情表現をする
別に誕生日が同じだからといって、その人と他に共通性があるわけではなく、また何かしらの共通性があったとしても、それは単なる偶然であり、他に特別の意味はない
世界には60億の人間がいるのであり、1年を365日で割れば、地球上には自分と同じ誕生日の人は1,643万8,356人いる計算になる
それだけたくさんの同じ誕生日の人がいるのであり、同じ誕生日の人がいても別段珍しいことではない
にもかかわらず、同じ誕生日の人がいると、なんとなく親近感が湧いてしまうこともある
仮に同年齢で同じ誕生日の人が4人一緒に集まったということであれば、それなりに珍しいことかもしれない
けれども、珍しいことではあれ、それがありえない数字ではない
それが1,000人集まりましたということになれば、それなりに珍しいと言える
だがしかし、珍しいことではあるけれど、それは確率的に珍しいだけであって、他に意味はない
このときどんな感情が沸き起こるか
おそらく確率的に珍しければ珍しいほど、何らかの親密感が湧くと思う
お互いがお互いに対し、珍しいですねと、その珍しさを楽しむ感情が生まれるかもしれない
珍しければ珍しいほど親密性が増す
その理由は何なのか
いくら珍しいものであっても、そこに必然性はなく、あくまでも偶然性が存在するにすぎない
自分の意思が入り込んだ必然性のあるものならば、何かしらの連帯感のような感情が沸き起こるのもわからないではない
しかしながら自分の意思が全く入る余地のない偶然性の産物に関し、何かしらの親密性が生まれることがあるのはどうしてなのだろう


それは誕生日であっても、ほかの何かしらのものであっても同じだ
他人と電話番号が似ていても、「おっ、似ていますね」というリアクションがある
似ている番号なんていくらでもあるのにだ
仮に似ている番号が少なくても、あらためて考えれば似ている番号に何かしらの意味があるとは思えない
番号そのものに意味はないのだから


趣味のようなものが他人と一致すれば、そこに何かしらの親密性が湧くのはわかりやすい
しかし、誕生日や電話番号等、自分にとっても何かしら意味がなく、気にもしていなかったものが、たまたま同じ数字等に出会うことで、突然意識がその数字に向かう
珍しいからこそ意識が向かう
でもよく考えると珍しいものであるからといって、数字そのもに新たな意味が突然発生するわけではない
あくまでもその数字そのものではなく、その数字を利用している何かしらの人であったり物であったり、そういった対象に対して何かしらの意識が発生するにすぎない


その理由は何なのか


意識が発生するからには何かしらの理由があるはず
「珍しい」という言葉
それは単に数字的な確率のみではなく、おそらくそれに加算された、何かしらの評価が入り込んでいる
〜普段見ることのできなかった物を見ることができた〜
言い換えれば、見てみたかったもの、自分が無意識に希望していたものが実現した
そういった感情もあると思う
誕生日や電話番号にそういった感情まであると推測することには飛躍があると思う
けれども自己と何かしらの共通性がある
「共通性」
そこに無意識に人が求めているものがあるのではないか
人は何かしらの共通性を求めてしまっている部分があるのでないか
共通性の認識を得ることで、自己の考えなり、存在なりが認められるといったような感情
誇張して考えればそういった共通性の認識が生まれることの安心感に、「珍しさ」ということに評価が入り込んでくるのではないか


誕生日や電話番号が似ているからといって、人はそこまで共通性の認識が生まれる安心感が顕在化するとは言えないと思うけれど、心の底にはどこか、そういった安心感を無意識に求めているがゆえに、「似ているね」という意識をするのではないか
何かしらの共通性を持ちたいという理由がなければ、「同じだね」とか「似ているね」といったリアクションが出てこないと思うからだ


人は他人と社会生活をするうえで、おそらく自己と何かしらの共通性を無意識に求めているのではないか
共通項を見出すことにより、自己が認めらる、自分と同じものがある
それが珍しければ珍しいほど、自己との結びつきはより強固なものと感じるのではないか
そこに安心感を感じるのではないか


なんだかまた難しくなってきた
そのうちにまた考えよう

印象と好感または関心

毎日使う駅だったり、お店だったり、その他特定の場所だったり
同じ行動をとっていれば、そこで出会う人がいる
同じ時間同じ場所という行動を繰り返していれば、同じようにたまたまその場所にいる人はいるものだ
自分がそうであるように、その人もまた、何らかの理由により同じ行動をとっている
意識していないだけで、そこには必ず同じ行動をとる人がいる
意識していないから気づかないだけ
複数回同じ顔を見るにつれ、やがてその人に気づくこともある
仮に気づいたとしても、知り合いでもない限り、別段意識せず、特に何らかの感情は湧いてこない
それが、1週間であっても1ヵ月であっても1年であっても同じだ
5年間毎朝駅で見かける人がいても、特に感情はわかない
その人に対し、何か特定の意識は普通もたない
つまり、同じ顔を見たとしても、同じ場所である限り、それが何回でも特定の意識はもたない


しかし、それがいつもと違う場所で見かけたというときはどうだろう
あそこで見かけた人がここにもいた
それだけで多少、意識はその人に向く
それでもその場所が、近くだったり、または普段その人を見かける場所と同じような店だったりすると、ああ、そういえば、あの人、あの店でよく見る人だな
そう思う程度だ
いつもと違う場所で見かけることで、普段意識していなかった人に対し、何らかの意識を持ち始める
無意識だったものに対し、意識のベクトルは、過去に遡る
思い出して、「そういえば…」といった感じで時間軸が逆流する
つまり、同じ顔を異なる場所で見かけるとき、それが通常予想しうる範囲での場所である限り、止まっていた意識のベクトルは過去に向かって動き出す



さて…



これが通常予想しうる範囲を超えて、予想外の時間や予想外の場所となるとさらに状況が異なる


長くなりそうなので、あす以降また考えよう

手書きと活字の印象の違い

文字の手書きをする機会はだんだん減ってきている
PCなり携帯メールなりで用件は事足りることが多い
何かの書類にサインしたり、手帳に書き込みをしたり
他には年賀状くらいか


確かに活字の方が読みやすい
他人に何かを伝える伝達手段としての文字の場合、読みやすさが優先される
そのためには手書きよりも活字に分配があがる


手書きが読みにくいのは、個々に癖があり、文字としての均一化された形象を持っていないから
それぞれ曲げる、はねる、のばす等、個々の文字の特徴のみしか書き手は意識していないから
それは書き手が文字を全体として一つの形として認識していないから


これに対し、活字は文字の個々の部分のみならず、一文字全体としてのバランスを意識して作られた文字なので、文字全体を見る限り、バランスよく作られている
バランスがよければ読みやすい


手書きと活字の違いは読みやすさという見た目の問題だけではない
読みやすさに起因する別のことにも違いが現れる
それは活字で書かれた情報の方が、なんとなく正しいと思いがちになること
ある物事を鉛筆で日記に書いてある場合と活字で書かれた場合とでは、そこに表現されている「事実」の評価に違いが生じているのではないかと思うことがある


それは活字は手書きに比べ、一般的に不特定多数の者に向けられたものであることが多いということではない
自分のために書き残す備忘録であったとしても、いつしか忘れたころに読み返すとその違いに気付く
曖昧であったものが、いつしかそれは「事実」であったかもしれないとの思い込みに変化しているときもある
また他人の手書きの伝達文章であったとしても、それが手書きの物である場合よりも活字にされたものである方が、「事実」の伝達力は強いと思う
少なくとも自分はそう感じている
それがいいのか悪いのかは分からないのだけれど


手書きよりも活字で書かれた情報の方が正しいと思い込んでしまうその理由は何なのか


違いは読みやすさの違いしかない
そうだとすれば、その情報の正しさの認識の違いは、読み安さに比例していると言えなくもないはずだ


読み安いとは言いかえれば分かりやすいということ
分かりやすいということは頭にも残り安いということ
無駄な情報がない状態


人はなんだかんだと言っても、自分に理解できるのは、自分が経験してきたものしかない
経験していないことは本能で推測するが、その推測も、自己がしてきた経験の中で似ているものと無意識に比較しているはず
さくらんぼを食べたことが無い人に、いくらその味を説明しても、それは絶対に伝えることはできない
チェリーを食べたことがあるひとならば、さくらんぼとアメリカのチェリーとどこが違うのかと頭の中で比較しているはず
若しくはリンゴやイチゴと比較するかもしれない
ブルーベリーと比較するかもしれない
いずれにせよ、さくらんぼと何らかのものを比較して自分で想像することしかできない


それは食べ物以外のものでも同じ
あらゆるものは経験したことしか分からない
他人と全く同じ経験をしている人はいない
ゆえに他人の行動や気持を真に理解することはできない
想像するしかない
それは当たり前のこと
他人の行動や考えが分からないからこそコミュニケーションとして言語が発達した
そこに人間の他の動物との違いがあると思う


コミュニケーションの伝達手段としての文字
文字が読みやすく分かりやすければコミュニケーションは容易になる
そうだとしれば、対他人にとっては手書きよりも活字の方が好ましいという結論になる
なんだか少しさみしい気もするが、雰囲気などは別として、単に「事実」を伝えるという点のみに着目すれば、理屈ではそうなる



では対自分に対してはどうだろう
読みやすさは分かりやすさに通じる
分かりやすいと記憶に残りやすい
そうだとすると記憶に残りやすいということは正しいという思い込みにすり替えられるのだろうか


経験してきたものしか分からないということ
それは自分に分かるものだけしか記憶に残らないということともとれる
読みやすいかどうか、それは記憶に残りやすいかどうかと同義とも言えるのではないか
そこに手書きと活字の違いがあるように思う

The Cyclist

Mario Sironi(1865〜1961)
イタリアの人なので、著作権切れが50年となり、ようやくネットで画像を出しても大丈夫



The Cyclist 1916年

ちょっぴり暗めな感じがなんとも言えず惹かれる
通常、自転車ならば、軽快に移動する、または汗をかいて運動する
そんなためのもの
にもかかわらず、彼はなんとダークなイメージを描くのか
彼の他の作品を見ると、社会風刺的なものを描きたかったのか、暗めのものが多い



これも上と同じタイトルで同じ年

彼は自転車に何を思い、何を見ていたのか
自転車が好きだったのか、嫌いだったのか



Urban landscape


一見のほのぼの系な気もするが、笑顔は描かれていない
このモデルさん
どのような表情を想像させたかったのだろう

自分が最も好きなデキリコと同じ匂いを感じる
音のない音楽
静かな世界
そこに動きはあるのだけれど、その静かさに気温はない
無機質な冷たさ


彼の伝えたかったものは一体なんなのだろう

話す言葉と読む言葉の違い

会話を録音したものを反訳していると、そこに現れる文字の言葉に驚きを感じる
主語が省略されているといった程度のものではなく、そこに現れる文字の言葉は、もはや単語の羅列に近いものもある
そうなると修飾語などは一体どこにかかっているのかは全くわからなくなることのもある
また、同じ単語の繰り返しも多い
会話を聞いていると、話に慣れた口の良く回るおしゃべりな人という印象を受けるのだが、いざ文字になると、小学生の文章よりひどいこともある
これは、特定の人に限ったことではなく、多かれ少なかれ誰にでも当てはまるものだと思う

感情に任せて気持ちをぶちまけるだけの話
他人の話を聞かない一方的な話
そういった話は文章になると比較的に稚拙なものになりがち
それでも会話をしていて不自由しないのはなぜなのか


口語という単語があるように、文字による文章と口による会話とは異なることが前提であるかのようだ
同じ日本語なのに違いがあるということ

例えば、新聞の記事
これをそのまま口でしゃべっても不自然だ
あれは短い文章で、できるだけ必要な情報を伝えるために独特の省略があるから
では省略を気にしないでいい場合はどうだろう
例えば本
文字数に規制が無い限り、何かを省略する必要はない
そのため読む人すべてに誤解なく表現者の真意が伝わるように、主語、述語、修飾語等、決められた一般ルールにのっとり文章化される
本来意志の伝達には、対話者が相互に理解できる一定のルールの共通認識があれば、それが他者にとってどんなに理不尽なものであれ、何ら問題はなく、会話として成立する
二者間の会話では一定の物事に対して共通認識を持ちやすいというか、共通の接点を見出しやすいというか、何らかの同一があると言えると思う
だからこそ会話が成り立ちうる
けれども話していて理解しがたい表現等が具現化されるときがある
それは大概は、自分の立場を前提として一方的に話しているときで、他方の者は、共通の経験をしていない者に関し、推測で物事を理解しようと努めることになる
残念ながら、人は経験したモノしかわからない
人から聞いたことというものは、わかったつもりになって推測しているにすぎず、真に理解はしていない
自己の経験の積み重ねから、他人の未知の経験を推し量る
リンゴを食べたことのない人間に、リンゴとはこれこれこういう味でと言葉で説明しても、説明されたほうは、食べない限り永遠に理解することはない
限りなく、理解に近づくことはできるが、決して辿り着くことのない同一性


家族に楽しいこと悲しいことがあっても、それは本人でしかその気持ちを知り得ない
家族でさえも、推測することしかできない
それは当たり前のこと


会話、それは言い換えれば、個々の経験を前提とした一方的な意思表示の交錯といえる
すなわち、違うことが前提で、同じものに近付ける
そうであるがゆえに、社会生活を成り立たせるために、文章に一定のルールを課し、最大公約数的な共通認識を要求する


うぅ〜ん、なんだか難しくなってきた
また明日考えよう



おじさん遊んでるね度 ☆☆☆
ナルちゃん入ってるぞ度 ☆☆☆☆
顔は笑わず、手足が踊るぜ度 ☆☆☆☆

視覚と聴覚で感じることの違い 2

視覚と聴覚の違い
それはどこにあるのだろう

危険を察知する質と量
得られる情報
それはどのような違いがあるのだろう


目で見るということ
それは何を意味するのか
耳で聞くということ
それは何を意味するのか


目で見るということ
それは光であり、その違いに基づく色であり、物の形を区別している
耳で聞くということ
それは空気の振動であり、それに基づく音である
ぱっと思いつくのはそんなところか


それだけであるならば、運転しているときは、対向車なり、歩行者なりを視覚で認識することができれば、事故はかなりの確率で防げそうだ
視覚による危険情報から漏れるわずかなものは、クラクションや自転車のベル、人の叫び声等の音による危険情報で補う程度でよさそうである
けれどもそんな単純なものではない気がする
はたして聴覚による危険情報は、視覚による危険情報を補うといった程度のもの、言い換えれば、質は同じで量の違いなのか


ヘッドホンやイヤホンをして外の音を完全にシャットアウトして運転するということ
それは言ってみれば、昔のサイレント映画を見ているようなものだろう
あのサイレント映画と通常の映画の違い
音があるかないかで何が違うのか
サイレント映画を見ている時の現実離れした不思議な浮遊感
そこに違いがある
あの浮遊感
それは時間の感覚がずれるよう気持
動いているのに時が止まっているかのような静けさ


そう、音は時間を感じるひとつの道具なのではないだろうか
いや時間を肌で感じることができるのは、音だけなのではないだろうか
ドップラー効果がまさにそれだ
遠いところの音は低く感じ、近いところの音は高く感じる現象を説明するドップラー効果
この効果があるからこそ人は聴覚により時間を感じることができるといえると思う
あまり聞かないけれど、ドップラー効果と時間の体感はかなり親密な気がする
光のドップラー効果もあるけれど、運転していて、色の差を感じるほどは差異を感じにくいと思う



音であれば、遠い音は低く感じ、近くなるにつれ音は高くなる
よく言われる救急車が通りすぎるときのサイレンの音を思い浮かべればよくわかる


音、それは時間を感じることができる一つの手段
対向車が近づいてくる
それを視覚で感じ危険を察知することはできる
対向車が近づくにつれ視覚に映る車は大きくなり、危険を察知することはできる
色の違いまでは分かりにくいと思うけれど、単なる大きさの違いはわかる
けれどもそれがあっているのか間違っているのか、情報の正確性を担保する必要がある
同じ質のものを上塗りしても、正確性の担保は弱い
異なる質のものを使い、違った角度で情報の正確性を担保できれば、その危険判断の情報は正確性を増すといえる
そう思う


それゆえ、運転していて音も聞こえたほうが危険判断はしやすいのではないか
耳は単なるクラクション等を聞くことにあるのではなく、クラクションの音、車のタイヤのロードノイズ、風切音、その他のもろもろの音から、コンマ何秒後かに何かが近づいているという判断ができる
一瞬の理論上のある一時点の音そのものではなく、現実世界の一定の時間の中に存在する音の変化を聞きとることで何秒後かの未来を無意識に判断している
そういうものなのではないか
何秒後かの未来の危険をドップラー効果により判断できているのではないか
そういった時間を感じ取ることが瞬時にしてできることから危険をあらかじめ察知し、危険を回避できる運転ができるのではないか


むむむなんだか難しくなってきた
あれこれ考えてはみたものの、実は視覚は単なる疲れから危険情報の収集能力が退化するから、耳でもちゃんと聞いてね
そんな程度だったりして…



ついに1アーティスト1タイトルの縛りをやめた
そうすると、2曲目は何と言ってもこの人からだよなあ

俺は俺で行くのだ関係ないさ度 ☆☆☆☆☆
考えているようで、そんなに考えてないかも度 ☆☆☆☆
いつもおすまし、たまには笑えよ度 ☆☆☆☆