偶然性と親密

誕生日が自分と同じ人に出会ったり、有名な人が自分と同じ誕生日だったと知ったとき
多くの人は、「おっ、同じ誕生日だ」と何かしらの感情表現をする
別に誕生日が同じだからといって、その人と他に共通性があるわけではなく、また何かしらの共通性があったとしても、それは単なる偶然であり、他に特別の意味はない
世界には60億の人間がいるのであり、1年を365日で割れば、地球上には自分と同じ誕生日の人は1,643万8,356人いる計算になる
それだけたくさんの同じ誕生日の人がいるのであり、同じ誕生日の人がいても別段珍しいことではない
にもかかわらず、同じ誕生日の人がいると、なんとなく親近感が湧いてしまうこともある
仮に同年齢で同じ誕生日の人が4人一緒に集まったということであれば、それなりに珍しいことかもしれない
けれども、珍しいことではあれ、それがありえない数字ではない
それが1,000人集まりましたということになれば、それなりに珍しいと言える
だがしかし、珍しいことではあるけれど、それは確率的に珍しいだけであって、他に意味はない
このときどんな感情が沸き起こるか
おそらく確率的に珍しければ珍しいほど、何らかの親密感が湧くと思う
お互いがお互いに対し、珍しいですねと、その珍しさを楽しむ感情が生まれるかもしれない
珍しければ珍しいほど親密性が増す
その理由は何なのか
いくら珍しいものであっても、そこに必然性はなく、あくまでも偶然性が存在するにすぎない
自分の意思が入り込んだ必然性のあるものならば、何かしらの連帯感のような感情が沸き起こるのもわからないではない
しかしながら自分の意思が全く入る余地のない偶然性の産物に関し、何かしらの親密性が生まれることがあるのはどうしてなのだろう


それは誕生日であっても、ほかの何かしらのものであっても同じだ
他人と電話番号が似ていても、「おっ、似ていますね」というリアクションがある
似ている番号なんていくらでもあるのにだ
仮に似ている番号が少なくても、あらためて考えれば似ている番号に何かしらの意味があるとは思えない
番号そのものに意味はないのだから


趣味のようなものが他人と一致すれば、そこに何かしらの親密性が湧くのはわかりやすい
しかし、誕生日や電話番号等、自分にとっても何かしら意味がなく、気にもしていなかったものが、たまたま同じ数字等に出会うことで、突然意識がその数字に向かう
珍しいからこそ意識が向かう
でもよく考えると珍しいものであるからといって、数字そのもに新たな意味が突然発生するわけではない
あくまでもその数字そのものではなく、その数字を利用している何かしらの人であったり物であったり、そういった対象に対して何かしらの意識が発生するにすぎない


その理由は何なのか


意識が発生するからには何かしらの理由があるはず
「珍しい」という言葉
それは単に数字的な確率のみではなく、おそらくそれに加算された、何かしらの評価が入り込んでいる
〜普段見ることのできなかった物を見ることができた〜
言い換えれば、見てみたかったもの、自分が無意識に希望していたものが実現した
そういった感情もあると思う
誕生日や電話番号にそういった感情まであると推測することには飛躍があると思う
けれども自己と何かしらの共通性がある
「共通性」
そこに無意識に人が求めているものがあるのではないか
人は何かしらの共通性を求めてしまっている部分があるのでないか
共通性の認識を得ることで、自己の考えなり、存在なりが認められるといったような感情
誇張して考えればそういった共通性の認識が生まれることの安心感に、「珍しさ」ということに評価が入り込んでくるのではないか


誕生日や電話番号が似ているからといって、人はそこまで共通性の認識が生まれる安心感が顕在化するとは言えないと思うけれど、心の底にはどこか、そういった安心感を無意識に求めているがゆえに、「似ているね」という意識をするのではないか
何かしらの共通性を持ちたいという理由がなければ、「同じだね」とか「似ているね」といったリアクションが出てこないと思うからだ


人は他人と社会生活をするうえで、おそらく自己と何かしらの共通性を無意識に求めているのではないか
共通項を見出すことにより、自己が認めらる、自分と同じものがある
それが珍しければ珍しいほど、自己との結びつきはより強固なものと感じるのではないか
そこに安心感を感じるのではないか


なんだかまた難しくなってきた
そのうちにまた考えよう