視覚と聴覚で感じることの違い

運転するときに、ヘッドホンやイヤホンで音楽等を聞いてはいけないことになっている
危険だからだ
ではその危険とはどういうことのなのだろう
言い換えれば、聴覚による危険の察知はどのようなものなのだろう


運転するときは目でも危険を察知することができる
視覚による危険の察知
危険は目だけではない
耳でも危険を察知する
具体的にすぐに思いつくのは踏切の音、車のクラクションや急ブレーキの音、自転車のベル、人の声などだ


これらの聴覚による危険の察知
これは目で見る危険とは異なるもの
視界に入らなくても聞こえてくる情報
視界に入る情報、それが脳に伝わるのは意外に少ないのかもしれない
以前にも考えたけれど、目には映っていても、意識しない限りその視覚から得られる情報は行動には現れない
例えば、毎日歩いている駅までの道の中で、すべての建物の詳細な具体的情報が頭に入っているわけではない
いつも同じ駐車場に止まっている他人の車のナンバーなんて覚えてはいない
視界に入る全ての情報のうち、脳に伝達されて意識が行くのは、自分にとって必要なものだけ
意識的にせよ、無意識的にせよ、情報は何らかのそれぞれの基準で選別されている
その基準をクリアしたものだけが自分の脳に残る
普段は脳の引き出しにしまわれて、何らかのときにその引き出しが開けられるとき、記憶としてその情報は顕在化する
いやもしかしたら、そもそも脳の引き出しにすら残っていないものもあるのかもしれない


気にしないものは目には入っていても、情報として記憶に残らない
記憶に残せない情報、言い換えれば、その人間の行動に影響を与えない情報と言えるものがあると思う


では聴覚はどうか
耳には入ってきているが意識しない音もある
街中の人が多い場所で、他人の会話は耳に入っているはずだけれど、意識しないとその会話は全く頭に入らない
日本語として理解できる会話であっても、言葉として認識せず、ただの雑音でしかない
いやそもそも全く意識しなければ、雑音とすら感じない
何か物事に集中しているときは特にそうだ


その点では、視覚も聴覚も同じだ
けれども視覚と聴覚には違いがあるはずだ
それは目を閉じていては運転ができないと言ったことではなく、もっと根本的な問題があると思う
それは危険を察知する質と量、得られる情報に違いがあるはずだ


明日また考えよう

のんきな俺様見て見てちょんまげ度 ☆☆☆☆☆
今日も晴れ、明日も晴れ、明後日も晴れさ度 ☆☆☆☆
気楽に羽ばたけ、振り返るのはアホさ度 ☆☆☆

名前と自分という存在

先日、財布の置き引きにあった
30秒目を離したすきのあっという瞬間
免許証、クレジットカード、住民基本台帳カード、キャッシュカード、保険証等、自分の住所氏名が記載されているものが入っていた
もろもろの再発行がそろうまでそれなりの時間がかかる


それまで、しばらくは自分を公的に証明するものが何も手持ちにない
公的ではないものならばあるけれど、銀行窓口などでの身分証提示には使えない
そう、その間の自分は、自分が自分であることを誰にも公的に証明することができない
ここにいるのは紛れもない自分なのに



小学校を卒業した3月の春休みの間のほのかに暖かい桜の咲く季節
いまだにはっきりそのときの気持ちを覚えている
いま自分はどこにも属していない
小学生でもない
中学生でもない
学校が嫌いなわけではなく、むしろ好きだった
それでもどこにも属していないという解放感
とても心地よい風を感じた


40歳を過ぎて同じ気持ちをちょっとだけ味わえた
公的には何も証明することができない自分
自分が自分であることを他人に公的に証明できない
不便ではあるけれど、何かから解き放たれた解放感


誰もが名前は自分では付けられない
親が付けてくれた名前
決して気にいっていないというわけではなく
名前になんの不満もないけれど、名前は物心ついたころから自分にあるもの
人は生まれてからだんだん知識や感情が育まれ、自分が自分であることを意識するようになる
子どもから大人
そうして人は成長する
様々なことを体験し、様々なことを学ぶ
学ぶにつれ、様々なものも変化する
だがしかし、名前だけは最初から変わらない


人と他の動物との違い
それは知能の発達と言われている
人がこれほどの知能が発達したのは、言葉の存在にあると思う
知能が発達したから言葉ができたのではなく、言葉があるがゆえに知能が発達した
そう思う
人はモノを考えるとき、頭の中でも言葉で考える
感じることは言葉は不要だが、考えるには言葉が必要だ
感じることと考えることの違い
それは論理的に物事を組み立てているかどうか
そこにあるのではないかと思う


言葉、それは他者とのコミュニケーションの手段のみならず、自己との対話
そういう手段的要素が強いと思う


名前、それは生まれてから与えられる最初の言葉
その言葉は自己を表す最初の手段


もし自分に名前がなかったら…
もしすべての人に名前がなかったら…
あらゆるものに名前がなかったら…


名前のない世界での生活
それはどのような生活なのだろう


何かを伝えたいとき、目の前にいるものとの対話は、指差しで可能だけれど、目の前にいない人との対話は、モノに名前がないと伝達できない
色や形で伝える
しかも色や形を表す言葉も、その物を表現する名前にすぎない
それを表現する名前すらないとしたら…



自分の名前
それは自分が自分であることを表す1つの手段
1つの手段ではあるけれど、唯一の手段というわけではない
ないと不便であるというだけ
自分が自分であることを他人に証明できない
そんな機会が訪れて、改めて自分とはなんぞやと考えるきっかけになったともいえる
ここにいるのにここにいない

名前、それは他者、自己を含め、対話にとって便利であるからゆえに生まれた産物
けれど、逆にいえば、名前があるからこそ、名前のもつ意味の範囲でしか対話ができない
モノと名前は決して常に同一ではない
他人と会話をしていてかみ合わないとき、それは言葉のニュアンスが違っていたなどというのはよくある話しだ


名前がない自分
それは不思議な浮遊感
財布をなくして不便から感じたその感覚

人は生きていく限り、名前が付けられている身の回りのあらゆるモノ
に無意識に拘束されているのかもしれない




まったりはったり度 ☆☆☆
俺は俺だぜ度    ☆☆☆☆
我が道を行くぜ度  ☆☆☆☆

「今どきの子どもは」という言葉

よく言われる、「今どきの子どもは」という言葉
それはいつでも、年上の人間が、年下の子どもを見るときに感じて出てくる言葉
その裏には、自分たちの子どもの頃は違う、自分たちが子どものときはもっと良かった、等の揶揄が存在する
それは自分を中心に時間軸にすえて、自分からの視点での考え方
確かに、昔と今とは違う
比べる対象には様々なものがありうるが、昔の子どもと今の子どもがその比較対象において、異なる現象があることはおそらく誰も否定しない
いや本質的には、同じなのだ、変わらないのだという点もあるけれど、何かを比較したときに、異なる現象が存在することは否定できない
それはちょっとしたしつけだったり、マナーだったり、一般的には公共上の社会常識と呼ばれる分野において比較されることが多い


では、ある対象物において、その点は昔の子どもの方が客観的に良かったのかというと、それは言いきれないと思う
いつの時代にも、それは同じことが言われるのだから


ラジオで聞いた話では、なんでもピラミッドの中の象形文字の中にも、「今どきの子どもは」という趣旨の文字が書かれているらしい
何千年も前から、世界のあらゆる場所で、同じことが言われ続けてきたのだ
だとしたら、これから何千年先にもきっと、同じように「今どきの子どもは」と言われ続けるのだろう


なぜ、人はいつの時代も、「今どきの子どもは」と思うのか
それは、自分が経験してきたことでしか物事は考えられないから
自分以外に一定数同じ経験をしてきている人間がいると知ったとき、それは自分にとってだけでなく、いつのまにか社会の常識であると記憶が刷り込まれる
でもそれは仕方のないこと
人は経験したことでしか物事を考えることができないと思うから
言いかえれば、物事を考えることができるということは、何かを経験し、それを事実として脳に記憶し、何かが起きたとき、経験してきたそれと類似するものを本能で探し、想定事項を組み立てることで思考回路が生まれる
多分そんな感じなのだと思う


だから、いつの時代も大人たちが、「今どきの子どもは」と感じるのは当たり前のことなのだと思う
時代が変われば、細かな社会状況は変化する
その変化に自己の認識がついていかないのであれば、必然的に自己の経験基準を固定化し、その社会状況を昔を基準として判断せざるを得ない


ここまでで考えを止めると、「今どきの子どもは」と発してしまうその大人は、時代の流れに乗れない、頑固な頭を持っているというマイナスのイメージが表にでてしまう

さて、それは本当にマイナスなことなのか
視点を変えて考えてみた


長くなりそうだ
明日以降の思考に続く



風船より軽いその音楽度      ☆☆☆☆
深く考えるなよ、気楽に行こうぜ度 ☆☆☆☆☆
気取って踊って、最後にフフフ度  ☆☆☆

ザイオンス効果

ザイオンス効果:繰り返し接触しているものには、人は好感を抱きやすいという心理

なるほど、そう言われてみると、当てはまることは多々ある
CMや、街中の広告を例にするまでもなく、普段の何気ない生活にも、知らぬうちにこの心理状態に陥ることはある

本を読んだら、捨てるのか、とっておくのか、どちらがよいかの話を読んだことがある
一般的にはどちらが多いのだろう

 
よく蔵書で家の床が抜けたという話を聞く
立花隆氏の話は有名だ
確かに家の中にあるもので、1番重量のあるものは本だ
持っている人なら軽く1トンは超える
そんなに保存できないし、購入資金もないので、自分はもっぱら図書館利用派だ
自分の場合、2回以上、繰り返し読みそうな本は買うことにしている
図書館で借りて読んだら返却する以上、自宅には本は残らない
この場合、読んで捨てる派と同じだ


読んでも捨てない場合、自宅なり、書庫なりに保管することになる
本棚に本が溜まる
それは見ていてとてもウキウキする
いろんな人の本棚を見るのが好きだ
世界の図書館の本棚の写真も好きだ


それはどうしてウキウキするのか
簡単に言えば、このザイオンス効果なのだろう
繰り返し見ることでそのものに好感がわく
好感が湧くと、様々な自分に都合の良いイメージが思い浮かび安い
本の背表紙を見る
するとその本に好感が湧く
それは読んだ本の内容を思い出しやすいということ
捨ててしまえば、それができない
繰り返し読まないかもしれないけれど、本の背表紙を眺めるだけで、読んだ記憶がよみがえる
積読という言葉
それはとても面白い良い造語だと思う
未読でもその本がいつも目に入るところにあれば、どんな内容なんだろうと様々な空想力をかきたてる


その意味で、書式の電子化は、寂しい気がする
自分が在住する千代田区は、WEB図書館といって、自宅のパソコンからネット上で本を借りることができる
英会話の教材など、動画で読むことができるという紙の本にはないメリットがある
ただ、背表紙のある生活、ザイオンス効果は得られない


iPhoneiPadのようにタブレットPCとして電子書籍を読む手段もあるけれど、あれは単なる知識の吸収にすぎない
便利であることは間違いないけれど、知識を得たいと思う以上のウキウキ感は得られない


本の背表紙のある生活
とてもいいものだと思う



若いのに姐御度      ☆☆☆☆☆
ペギーリー姐御度     ☆☆☆☆
爽やかレモンスカッシュ度 ☆

物を「かじる」という行為

よく通う銭湯が、その日はリンゴ湯だったので露天風呂にリンゴがちりばめられていた
なんとなく「かじってみたい」、そう思った
決して食べたいと思ったわけではない
ではなぜ自分は「かじってみたい」と思ったのだろう


「かじる」という行為
それは何を意味するのか


危険を感じさせる判断の手段として、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚等いわゆる五感がある


リンゴを見たとき、視覚によって、脳に甘酸っぱい味が再現される
舌で味覚を感じる前に、視覚によってなんらかの情報が脳に伝達される


手で何かを触るという行為
それは視覚という目で見てわかるものでも、それでも触って確かめたいという触覚の本能
物を握るのは、その物を、一瞬、自分の身体と一体化させて、それが体内に入り込んだとしたら危険なものなのかどうか、無意識に判断しているのではないか
多分そう思う

「かじる」という行為

それは、物を握るのと同じで、その物を体と一体化する前提の行為といえる



手の動きは口に何かを入れるもののためと考えることが自然な動き
立って両手をぶらりとさせた状態で、そのまま肘を曲げれば、その指先は前方ではなく、口元にくるはず
これが偶然とは思えない
ます視覚で、その全体像を判断し、何かを手で持ち、触覚で、その物の危険性を判断
その次にそれを口に持って行く
その時に聴覚でも判断している
そして飲み込む前に、まず味覚で、その物の危険性を判断する
「かじる」という行為
それは、何かを手で持ち、触覚で判断し、口元に持ってくる行為より後で、飲み込んでいいのかを判断する味覚よりも前の行為
そう考えると、「かじる」という行為
それは体内に物と入れることの是非を問う危険の判断手法とも言えると思う



そして鼻の穴の位置
それは口元にある物を「かじる」という行為を行うことの最終チェック機構ともいえるのではないか
嗅覚、それは、これは食べていいのだろうかという判断
鼻が単に酸素を吸い込むための道具にすぎないのであれば、鼻の穴は上を向いていても横を向いていてもいいのだ
なのに鼻の穴は下を向いて開けられていて、口の上にある
これも偶然とは思えない
鼻の穴の位置、手の骨格等、それぞれなぜそこにあるのか、なぜそういう骨のつぎ方なのかという理由を自分なりに考えれば、そういうことになる



ある物、ある行動、ある状態等そういったものに対し、それは何かを判断する探究心
それを失うと人類しての進化が止まると思う
パスカルだって、かつて言ったではないか
「人間は考える葦である」と
逆に言えば、何かを考えなければ人間も葦と何ら変わらない
違いは考えるかどうか
その探究心、好奇心がDNAの段階で「かじる」行為として人に誰にでも組み込まれているのではないか
小さい子どもが何かを口に入れようとするのも、決してお腹が減っているからではなさそうな場合が多い
おそらく小さい子どもが、何かを口に入れようとする行為は、大人が何かを「かじってみたい」という行為と同じなのではないか
大人が食べるでもなく「かじる」という行為をすることが少ないのは、おそらく経験による危険性判断の上達が理由なのではないか


そう考えたら、自分がたまに、何かを「かじってみたい」と思う気持ち
大人になりきれていないのかなぁ


リンゴをみて、ちょっとオーバーだけれど、考えがいろいろ膨らんだ


笑顔がハッピー物語る度 ☆☆☆☆☆
細かいことはええじゃなか度 ☆☆☆☆
結構なにげに深い熟練度   ☆☆☆☆☆    

人は何故初詣に行くのか②

昨日の続き
人は何故初詣に行くのか

神道と仏教
単純に思いついただけで、似ているところはあまりない
それにも関わらず、どちらにも初詣に訪れる
それは初詣そのものに対し、人は宗教的意味は見出していないということ
それゆえ神道だろうが仏教だろうが関係ないため、神社でも寺でもどちらでもよい
神社や寺の側でも、来てくれてお賽銭をたくさん投げ込んでくれれば、それでよいわけで、仲店も繁盛してよい
訪れる人の側のみならず、受け入れる側でも宗教的意味合いはおそらくほとんどないはず
宗教的意味合いがないのであれば、人は建物そのものが目的で訪れることになる


では何故人は、建物を目的として初詣に行くのか
人は建物に何を求めるのか


普段の生活では見る機会が少なくなった見た目が古い建物ということであれば、馬篭でも白川郷でも姫路城でもよいはず
けれども初詣を目的としてそこに訪れる人はおそらくいない
そこに訪れるのはおそらく観光が目的
とすれば、初詣は古い建物を見たいという目的ではないことになる


では、多くの人が訪れているから、なんとなく興味をひかれたという理由はどうだろう
例えば、街中を歩いている時に、行列を作っている飲食店を目にすると、あそこはおいしいのだろうかと誰しも思うだろう
今度行ってみようかと思うこともあると思う
初詣にこれが当てはまるかというと当てはまらない気がする
初詣はどこも混んでいて、ガラガラであれば行ってもいいけれど、という自分のようなタイプも多いはずだ


といういことは、初詣に訪れる理由は、古い建物だからでもなく、他の多くの人が行くからという理由でもない
実際に古いかどうかではなく、建物そのものの形に、人は何かしら惹かれるのだろうか
いわゆる美術品を鑑賞するように


訪れる人のうち、どれだけの人が「今年1年〜〜でありますように」と祈るのだろう
困った時の神頼みという言葉があるように、何かを頼みたいという気持ちを持つ者が多くいることは否定できない
また、困っていなくても、家族の健康や安全をお願いする人は多くいるはず
そもそも何かしらを祈願することは、何らかの対象物が存在するはず
その対象が建物という物理的な有機体のみを差しているとは考え難い
祈願する人は、その実現に向けて何かしらの期待をその対象に込めるはず
建物という物体そのものではなく、建物自体に何らかの意味を込めていることを当然の前提としているはず
その対象が実体のない者であれば、祈願するという行動は宗教と言っていいのではないか
ただ、訪れるすべての人が何かしら祈願しているとも思えない
訪れるだけの人もたくさんいるはず


人は何故初詣に行くのか
考えると難しい
また次回に続く




優しさの中に切なさがある度     ☆☆☆☆☆
これで一発という意気込みも不思議度 ☆☆☆
いいさ、そんなもんさの達観度    ☆☆☆☆

人は何故初詣に行くのか

初詣
お正月に多くの人が訪れる
知り合いが初詣に行った写真を見てふと疑問に思った


初詣
それは地域的な風習にとどまらない日本の文化
訪れる場所は、神社であったり寺であったり
要するに神道でもなく仏教でもないということか


調べてみたら、もともと風習レベルであったものを一企業たる電鉄が広めたものだとか
日本でバレンタインデーにチョコを贈るのも企業が広めたものだし、それと似たようなものなのね


神道と仏教の違い
よくは知らないのでイメージだけれど


神道:実在しない神様
仏教:実在したと言われるブッダ


神道:天変地異等、自然がらみの逸話
仏教:説教等、人間の生き方等の話


神道:公園や街角にもある小さな鳥居なども含める
仏教:大きな建物ばかり


神道:結婚式などに神主さんを呼ぶ
仏教:葬式などにお坊さんを呼ぶ


いま単純に思い浮かべて見たけれど、共通点どころか、似ていない点ばかりが思いつく
なのに初詣は神社でも寺でもどちらでもその対象とする
さて…


長くなりそうなので、また次回考えよう




インテリの音色が爽やか度 ☆☆☆
見た目も気にするビジュアル度 ☆☆☆☆
テクニックお披露目満足度 ☆☆