話す言葉と読む言葉の違い

会話を録音したものを反訳していると、そこに現れる文字の言葉に驚きを感じる
主語が省略されているといった程度のものではなく、そこに現れる文字の言葉は、もはや単語の羅列に近いものもある
そうなると修飾語などは一体どこにかかっているのかは全くわからなくなることのもある
また、同じ単語の繰り返しも多い
会話を聞いていると、話に慣れた口の良く回るおしゃべりな人という印象を受けるのだが、いざ文字になると、小学生の文章よりひどいこともある
これは、特定の人に限ったことではなく、多かれ少なかれ誰にでも当てはまるものだと思う

感情に任せて気持ちをぶちまけるだけの話
他人の話を聞かない一方的な話
そういった話は文章になると比較的に稚拙なものになりがち
それでも会話をしていて不自由しないのはなぜなのか


口語という単語があるように、文字による文章と口による会話とは異なることが前提であるかのようだ
同じ日本語なのに違いがあるということ

例えば、新聞の記事
これをそのまま口でしゃべっても不自然だ
あれは短い文章で、できるだけ必要な情報を伝えるために独特の省略があるから
では省略を気にしないでいい場合はどうだろう
例えば本
文字数に規制が無い限り、何かを省略する必要はない
そのため読む人すべてに誤解なく表現者の真意が伝わるように、主語、述語、修飾語等、決められた一般ルールにのっとり文章化される
本来意志の伝達には、対話者が相互に理解できる一定のルールの共通認識があれば、それが他者にとってどんなに理不尽なものであれ、何ら問題はなく、会話として成立する
二者間の会話では一定の物事に対して共通認識を持ちやすいというか、共通の接点を見出しやすいというか、何らかの同一があると言えると思う
だからこそ会話が成り立ちうる
けれども話していて理解しがたい表現等が具現化されるときがある
それは大概は、自分の立場を前提として一方的に話しているときで、他方の者は、共通の経験をしていない者に関し、推測で物事を理解しようと努めることになる
残念ながら、人は経験したモノしかわからない
人から聞いたことというものは、わかったつもりになって推測しているにすぎず、真に理解はしていない
自己の経験の積み重ねから、他人の未知の経験を推し量る
リンゴを食べたことのない人間に、リンゴとはこれこれこういう味でと言葉で説明しても、説明されたほうは、食べない限り永遠に理解することはない
限りなく、理解に近づくことはできるが、決して辿り着くことのない同一性


家族に楽しいこと悲しいことがあっても、それは本人でしかその気持ちを知り得ない
家族でさえも、推測することしかできない
それは当たり前のこと


会話、それは言い換えれば、個々の経験を前提とした一方的な意思表示の交錯といえる
すなわち、違うことが前提で、同じものに近付ける
そうであるがゆえに、社会生活を成り立たせるために、文章に一定のルールを課し、最大公約数的な共通認識を要求する


うぅ〜ん、なんだか難しくなってきた
また明日考えよう



おじさん遊んでるね度 ☆☆☆
ナルちゃん入ってるぞ度 ☆☆☆☆
顔は笑わず、手足が踊るぜ度 ☆☆☆☆