手書きと活字の印象の違い

文字の手書きをする機会はだんだん減ってきている
PCなり携帯メールなりで用件は事足りることが多い
何かの書類にサインしたり、手帳に書き込みをしたり
他には年賀状くらいか


確かに活字の方が読みやすい
他人に何かを伝える伝達手段としての文字の場合、読みやすさが優先される
そのためには手書きよりも活字に分配があがる


手書きが読みにくいのは、個々に癖があり、文字としての均一化された形象を持っていないから
それぞれ曲げる、はねる、のばす等、個々の文字の特徴のみしか書き手は意識していないから
それは書き手が文字を全体として一つの形として認識していないから


これに対し、活字は文字の個々の部分のみならず、一文字全体としてのバランスを意識して作られた文字なので、文字全体を見る限り、バランスよく作られている
バランスがよければ読みやすい


手書きと活字の違いは読みやすさという見た目の問題だけではない
読みやすさに起因する別のことにも違いが現れる
それは活字で書かれた情報の方が、なんとなく正しいと思いがちになること
ある物事を鉛筆で日記に書いてある場合と活字で書かれた場合とでは、そこに表現されている「事実」の評価に違いが生じているのではないかと思うことがある


それは活字は手書きに比べ、一般的に不特定多数の者に向けられたものであることが多いということではない
自分のために書き残す備忘録であったとしても、いつしか忘れたころに読み返すとその違いに気付く
曖昧であったものが、いつしかそれは「事実」であったかもしれないとの思い込みに変化しているときもある
また他人の手書きの伝達文章であったとしても、それが手書きの物である場合よりも活字にされたものである方が、「事実」の伝達力は強いと思う
少なくとも自分はそう感じている
それがいいのか悪いのかは分からないのだけれど


手書きよりも活字で書かれた情報の方が正しいと思い込んでしまうその理由は何なのか


違いは読みやすさの違いしかない
そうだとすれば、その情報の正しさの認識の違いは、読み安さに比例していると言えなくもないはずだ


読み安いとは言いかえれば分かりやすいということ
分かりやすいということは頭にも残り安いということ
無駄な情報がない状態


人はなんだかんだと言っても、自分に理解できるのは、自分が経験してきたものしかない
経験していないことは本能で推測するが、その推測も、自己がしてきた経験の中で似ているものと無意識に比較しているはず
さくらんぼを食べたことが無い人に、いくらその味を説明しても、それは絶対に伝えることはできない
チェリーを食べたことがあるひとならば、さくらんぼとアメリカのチェリーとどこが違うのかと頭の中で比較しているはず
若しくはリンゴやイチゴと比較するかもしれない
ブルーベリーと比較するかもしれない
いずれにせよ、さくらんぼと何らかのものを比較して自分で想像することしかできない


それは食べ物以外のものでも同じ
あらゆるものは経験したことしか分からない
他人と全く同じ経験をしている人はいない
ゆえに他人の行動や気持を真に理解することはできない
想像するしかない
それは当たり前のこと
他人の行動や考えが分からないからこそコミュニケーションとして言語が発達した
そこに人間の他の動物との違いがあると思う


コミュニケーションの伝達手段としての文字
文字が読みやすく分かりやすければコミュニケーションは容易になる
そうだとしれば、対他人にとっては手書きよりも活字の方が好ましいという結論になる
なんだか少しさみしい気もするが、雰囲気などは別として、単に「事実」を伝えるという点のみに着目すれば、理屈ではそうなる



では対自分に対してはどうだろう
読みやすさは分かりやすさに通じる
分かりやすいと記憶に残りやすい
そうだとすると記憶に残りやすいということは正しいという思い込みにすり替えられるのだろうか


経験してきたものしか分からないということ
それは自分に分かるものだけしか記憶に残らないということともとれる
読みやすいかどうか、それは記憶に残りやすいかどうかと同義とも言えるのではないか
そこに手書きと活字の違いがあるように思う