名前と自分という存在

先日、財布の置き引きにあった
30秒目を離したすきのあっという瞬間
免許証、クレジットカード、住民基本台帳カード、キャッシュカード、保険証等、自分の住所氏名が記載されているものが入っていた
もろもろの再発行がそろうまでそれなりの時間がかかる


それまで、しばらくは自分を公的に証明するものが何も手持ちにない
公的ではないものならばあるけれど、銀行窓口などでの身分証提示には使えない
そう、その間の自分は、自分が自分であることを誰にも公的に証明することができない
ここにいるのは紛れもない自分なのに



小学校を卒業した3月の春休みの間のほのかに暖かい桜の咲く季節
いまだにはっきりそのときの気持ちを覚えている
いま自分はどこにも属していない
小学生でもない
中学生でもない
学校が嫌いなわけではなく、むしろ好きだった
それでもどこにも属していないという解放感
とても心地よい風を感じた


40歳を過ぎて同じ気持ちをちょっとだけ味わえた
公的には何も証明することができない自分
自分が自分であることを他人に公的に証明できない
不便ではあるけれど、何かから解き放たれた解放感


誰もが名前は自分では付けられない
親が付けてくれた名前
決して気にいっていないというわけではなく
名前になんの不満もないけれど、名前は物心ついたころから自分にあるもの
人は生まれてからだんだん知識や感情が育まれ、自分が自分であることを意識するようになる
子どもから大人
そうして人は成長する
様々なことを体験し、様々なことを学ぶ
学ぶにつれ、様々なものも変化する
だがしかし、名前だけは最初から変わらない


人と他の動物との違い
それは知能の発達と言われている
人がこれほどの知能が発達したのは、言葉の存在にあると思う
知能が発達したから言葉ができたのではなく、言葉があるがゆえに知能が発達した
そう思う
人はモノを考えるとき、頭の中でも言葉で考える
感じることは言葉は不要だが、考えるには言葉が必要だ
感じることと考えることの違い
それは論理的に物事を組み立てているかどうか
そこにあるのではないかと思う


言葉、それは他者とのコミュニケーションの手段のみならず、自己との対話
そういう手段的要素が強いと思う


名前、それは生まれてから与えられる最初の言葉
その言葉は自己を表す最初の手段


もし自分に名前がなかったら…
もしすべての人に名前がなかったら…
あらゆるものに名前がなかったら…


名前のない世界での生活
それはどのような生活なのだろう


何かを伝えたいとき、目の前にいるものとの対話は、指差しで可能だけれど、目の前にいない人との対話は、モノに名前がないと伝達できない
色や形で伝える
しかも色や形を表す言葉も、その物を表現する名前にすぎない
それを表現する名前すらないとしたら…



自分の名前
それは自分が自分であることを表す1つの手段
1つの手段ではあるけれど、唯一の手段というわけではない
ないと不便であるというだけ
自分が自分であることを他人に証明できない
そんな機会が訪れて、改めて自分とはなんぞやと考えるきっかけになったともいえる
ここにいるのにここにいない

名前、それは他者、自己を含め、対話にとって便利であるからゆえに生まれた産物
けれど、逆にいえば、名前があるからこそ、名前のもつ意味の範囲でしか対話ができない
モノと名前は決して常に同一ではない
他人と会話をしていてかみ合わないとき、それは言葉のニュアンスが違っていたなどというのはよくある話しだ


名前がない自分
それは不思議な浮遊感
財布をなくして不便から感じたその感覚

人は生きていく限り、名前が付けられている身の回りのあらゆるモノ
に無意識に拘束されているのかもしれない




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