ジャンケンで勝つと嬉しく思うのはなぜなのか

大人は別として、小さな子供はジャンケンに負けると悔しがる
結構本気で悔しがる
うちの子どもだけではないと思う
その理由は何なのだろう


大人になってサッカーや野球、バスケットのような団体競技のみならず、マラソンや短距離走走り幅跳びのような個人競技であっても、勝つと嬉しいし、負ければ悔しい
その強弱に違いはあるけれど、嬉しさ、悔しさが少なからず存在することは否定する人はいないかと思う
スポーツであれば、それまで練習したことの積み重ねにより結果を出すという、いわば努力の現れば目に見える点が嬉しいのだと思う
できなかったことが少しづつできるようになれば嬉しいものだ
自分が成長したことを実感できるひととき

ではジャンケンのような、その勝ち負けが努力とは関係のない偶然性のものはどうだろう
ジャンケンの結果そのものは偶然だけれども、その結果によりついてくる付随的なものが異なるときはどうだろう
例えばジャンケンで何かの順番を決める程度のものであれば、普通勝ち負けにはさほどこだわらないことが多いだろう
ジャンケンで買った人が何かの権利をもらえるというのであれば、話は違ってくる
それが一つしかない美味しい食べ物であったり、ジャンの勝ち抜き戦で優勝者には商品が出るときなどだ
そんなときはジャンケンで勝てば嬉しいだろう
けれどもそれはジャンケンで買ったことが嬉しいのではなく、その結果得られる権利が嬉しいにすぎない
そう考えれば、ジャンケンのような偶然性のある勝負の場合、あくまでも間接的な嬉しさはあるかもしれないが、直接的な嬉しさはおそらく大人の場合はないと思う
勝ち負けは自分のあずかり知らぬところで決まるのであり、そこで一喜一憂することに意味はない
ジャンケン世界選手権なんて聞いたことがないから、おそらく全世界の人がジャンケンの勝ち負けにこだわっているということはないのだと思う


勝ち負けは何かしらの努力の結果に比例するものであって、人より頑張れたから嬉しいのだろう
そうだとすれば、子どものジャンケンはどうなのだろう
うちの子どもはジャンケンで自分が負けると結構本気で悔しがる
自分が勝つまでジャンケンを続けたがる
そこに努力の結果の比例は見られない
ただ純粋に勝ち負けに一喜一憂する
別にジャンケンに勝ったからといって、何かがついてくるわけでもなく、純粋にジャンケンのみで終わることなのだけれども、勝つと喜び、負けると悔しがる


勝ち負けは人の本能的なものなのか
人間に狩猟民族のDNAが残っているなどということはどう考えても無関係な気がする
勝ち負け自体は、お腹が減ったら何かをを食べるというような本能的なものではなく、あくまでもこれをやれば勝ち、これをやれば負けという、人が共同生活を営むうえで、そこに一定のルールを設けた結果にすぎないはずだ
決して本能的なものではないと思う
親なり友達なり、何かの機会に何らかの勝ち負けを決することがあり、その結果にともなって自分の欲しいものが得られるかどうか左右されることが過去にあって、それが記憶に埋め込まれているだけなのだろうか

おそらく歳をとるにつれ、ジャンケンの勝ち負けに今ほどこだわりを持つことはなくなると思う
それが物事を理解したことによる成長の証ということであれば嬉しい
偶然的ものに関し、勝ちを喜び負けを悔しがるということは、大人の一般社会では、あまり好ましいことでない気もするし
宝くじが当たれば嬉しいだろうから、偶然的なものに嬉しさを感じるのは別におかしくはないとも言えなくもないけれど、よく考えれば宝くじが当たって嬉しいのは、偶然性の結果ではなく、購入金額と比較してもらえる金額が多いというその額の差に嬉しさの意義があるのであって、100万円分宝くじを購入して10万円当たっても誰も喜ばない
同じようにクジで偶然に何かが当たってもそれは偶然の結果が嬉しいのではなく、もらえる商品等が嬉しいのであるにすぎない
そこに時間等含めた投資に対し、それを超えた利得を得られることに嬉しさがある
そう考えれば大人になってから偶然性そのものに対し、勝ち負けに一喜一憂することは普通はないと言えると思う

とすれば、子どもがジャンケンの勝ち負けにこだわっていることも時が経てば自然に忘れていくのだと思う
ただ、その勝ち負けにこだわる理由が、他の機会の影響でない場合、歳をとるにつれジャンケンの勝ち負けにこだわらなくなるのは、成長の証と言っていいのだろうか
もしかしたら何か大人にはもう理解できない、純粋なものがあるのだろうか
人はみな大人になるにつれ、いろいろなものを学んでゆくと同時に、いろいろなものを忘れてゆく
何を学んで何を忘れていくのかは、子どもを育てる親の影響が大きい
もしジャンケンの勝ち負けにこだわる理由が、子どもにしか感じることができないピュアなものとして存在するのであれば、親としてそれは持ち続けていて欲しいとも思う
他人に迷惑をかけるようなたぐいのものであれば困るのだけれど、そうでないならば、純粋に個人の内面の問題として、持ち続けていて欲しい
宮沢賢治のジョバンニとカムパネルラの話を持ち出すでもなく、宮崎駿氏の「となりのトトロ」の主人公の少女が象徴するように、純粋な子どもである妹と大人であるお父さんとの間で揺れ動くその微妙なバランス感覚が何となく今思い浮かぶ
親として子どもの成長はうれしい
嬉しいのだけれども、それは成長とともに忘れるものと、忘れてはいけないものの他に、別に忘れても覚えていてもどっちでもいいものもある
そういったどっちでもいいものを、覚えておいて欲しいと思うときがある
人としてこれから生きていく上でのピュアな気持ち
いや人間として生まれたときからの本能として持っているまだ汚されていないピュアな気持ち
そんなものはあってもなくても生きてはいける
やがて身に付く理性があれば他人に迷惑をかけずに生きていけるだろう
ただ、それはあっても困るものじゃない
そうであるならば、忘れても覚えていてもどっちてもいいもの
そういったものに関する今のピュアな気持ち
忘れないで育って欲しいと自分は思う




本日の今欲しいCD


metronome melody

yokota susumu 名義のCDは15枚持っているけれど、この名義で出したものはまだ持っていない
コメントを見る限り良さげだな
買おうかな




相変わらずのコンクリ打ちっぱなし度 ☆☆☆☆
夏にマイナス3℃度 ☆☆☆
土曜の朝のパン食度 ☆☆☆☆