絵を観るということ3

絵を観るという行為
絵を見て何かを感じるというに止まらず、何かを考えてしまうというその理由は何なのだろう

絵を観て何かを感じている状態
例えばなぜか微笑ましくなったり、寂しくなったり、懐かしさを感じたり、不安を感じたり
そこは決して自分の体験ではないにもかかわらず、まるで自分が体験してきたかのような気持ちになる

それらの感情が強ければ強くなるほど、やがて何かを考え出す
自分の感情という主観から一瞬抜け出し、客観的に絵を見つめ出す
そして考え出す
自分はこう感じたが、この作者は一体何を考えてこの絵を描いたのだろう
そんな風に見つめ直す


感じるということと考えるということ
その違いは言葉を使うかどうかにあると思う
両者の違いは理論的なものかどうかということもあると思う
だが結局は同じこと
言葉があるがゆえに理論的なものになるのだから


考えるという行為
それは他者に対し何かを伝達するということに主眼をおかず、自己の内面に対してベクトルが向けられたものであったとしても、言葉によって様々な感情と感情をつなげようとしている
感情から感情へのプロセスを理屈で埋め、次の感情を予測させる
そんは働きが言葉にはあるのだと思う
言葉があって初めて考える行為というものが成りたつのだと思う
それは決して音声を発するということではなく、頭の中での組み立ての前提として無音で存在するものだと思う


人が何かを考えるという行為
それは言葉が前提であり、人は言葉を使って生活している以上、常に感情と感情のつながりを無意識に理屈で考えているのだと思う
それゆえ、絵を観て何かを感じるという行為にとどまらず、何かを考えるという行為に及び、この作者は一体どんなことを伝えたかったのだろうと邪推することは自然な行為なのかもしれない


けれどもそこに正解はない
絵は観た人それぞれがそれぞれの気持ちで様々なことを感じて楽しめばよいのだと思う
観る人全員が評論家になる必要などないのだから
絵は描くまでは作者のもの
そして観る段階では、観ているその瞬間はもう作者のものではなく、観ている人その者のためにあるのであり、自由に感じ取ることに意味があるのだと思う
分析的に観る必要などないし、絵そのものに何らかの意味付けなど不要だと思う

絵を観るという行為
それはどうしても何かを考えてしまいがちではあるけれど、感じるということが本来の絵の楽しみなのだと思う


今日の買いたい画集

Conversations With Kostabi
古典でもなんでもないし、アートというよりもビジネスを強調するコスタビ
貴方はどうして自分の絵の料金をつり上げるのですかとの質問に対し、買った人たちが喜ぶからさと、本音とも冗談ともとれる面白い返答をした彼の画集は意外に少ない
人気のあった90年代に彼の贋作が出回ったことに対してどう思うかを贋作を前にして問われたときに、よくできているね、ホラと、自分でサインをし、これでこれは僕の作品さと回答を煙に巻く彼
本人一人で描いているわけではなく、チームとして描いてることからも、芸術家というよりは実業家と言ったほうが似合いそうだけれど、デ・キリコ好きにとっては彼の作品はたまらない現代風の良さをかんじる
これは持っていなくて長年どうしようかなと思っていたのだけれどまた欲しくなってきた




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