読書①

「新しいものを認識する。これは新しいものごとが独立して頭に入るのではない。既存のものと関連づけられて、はじめて認識になるのである。なまの印象が加工されて、他との調整を受け、洗練されて、自分のものになる。……理解にも同じことが言える。ものごとが理解されるのは、ほかのものごととの相互関係がつけられ、それらとの配合が行われて上のことであって、理解されているのは、はじめからなまのものではなく、加工のプロセスを受けたものになっている。変化している。あるがままの姿では理解できない。」(ものの見方 外山 滋比古 PHP研究所

本を読むとき、書いてあることをそのまま理解することは、意外にも難しい
知らない単語があれば、そこでは書き手の意思のとおり、理解することはできない
あくまでも文脈から、想像することができるにすぎない
表現の送り手が、その単語にどれだけ重きを置いていたのか
それによって表現の受け手の理解の度合いが異なってくる

話をしているときでも同じだ
翻訳するときも同じだ


外国語の小説を、日本語に訳す際に、面白いものとなるかどうか
翻訳家が、元の小説家と同じ技量がなければ、決して元の小説の微妙な味わいは出すことはできない
残念ながらそれは不可能に近い
トルストイの文章を日本語訳で読んで難しさを感じるとき、英語訳を読んだら理解できたというのもわかる話だ
科学書や医学書など、ある程度、概念として固まっているものを表現する場合を除き
小説などは各国、各人様々な価値観のもと、細かな感情表現が組み込まれている
それを読み手が理解するのはとても難しい


極論を言えば、小説をその背景を含め、書かれていることすべてを理解し、楽しむことができるのは、書いた本人以外には、一人もいない
話をする場合も当然同じ
話されている単語すべてを理解していても、話し手がどういう意図でそれを使っているのかは、想像するしかない
社会生活を営むなかでは当然のことながら一定の共通認識に立つ以上、ある言葉を使うときに、相手方とその認識が不一致することは少ない
けれども、残念ながら、完全に一致することはできない
どんなに理解しようと努めても、完全な理解は不可能だ


人は自分が経験したことしか理解することはできない
人に聞いたことは、自分が経験してきた類似のものと頭の中で比較して想像しているだけ
きっとそうだ


思い込み
それはえてして、自分が経験してきたことに我田引水してしまう悪いイメージがある
果たして思い込みは悪いことなのか


自分が経験してきていないことは、得られる情報から、頭の中でその情報を必要なものとそうでないものに選別する
言ってみれば、頭の中の「知の編集作業」
出された結論が間違っていた場合、それは勝手な思い込みをするなという負のイメージが残るけれど
思い込みすら起きない状態は、知の編集作業が起きていない状態とも言える
知の編集作業自体は悪いことではない
そうであるとするならば、思い込み
それは人が与えられた事実から、編集し、推論して、そして結論を導く
そういったとても知的な行動なのかもしれない




時代を感じる度      ☆☆☆
そのうちまた来るさ度   ☆☆☆☆
でもこの髪型は来ないな度 ☆☆☆