物を「かじる」という行為

よく通う銭湯が、その日はリンゴ湯だったので露天風呂にリンゴがちりばめられていた
なんとなく「かじってみたい」、そう思った
決して食べたいと思ったわけではない
ではなぜ自分は「かじってみたい」と思ったのだろう


「かじる」という行為
それは何を意味するのか


危険を感じさせる判断の手段として、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚等いわゆる五感がある


リンゴを見たとき、視覚によって、脳に甘酸っぱい味が再現される
舌で味覚を感じる前に、視覚によってなんらかの情報が脳に伝達される


手で何かを触るという行為
それは視覚という目で見てわかるものでも、それでも触って確かめたいという触覚の本能
物を握るのは、その物を、一瞬、自分の身体と一体化させて、それが体内に入り込んだとしたら危険なものなのかどうか、無意識に判断しているのではないか
多分そう思う

「かじる」という行為

それは、物を握るのと同じで、その物を体と一体化する前提の行為といえる



手の動きは口に何かを入れるもののためと考えることが自然な動き
立って両手をぶらりとさせた状態で、そのまま肘を曲げれば、その指先は前方ではなく、口元にくるはず
これが偶然とは思えない
ます視覚で、その全体像を判断し、何かを手で持ち、触覚で、その物の危険性を判断
その次にそれを口に持って行く
その時に聴覚でも判断している
そして飲み込む前に、まず味覚で、その物の危険性を判断する
「かじる」という行為
それは、何かを手で持ち、触覚で判断し、口元に持ってくる行為より後で、飲み込んでいいのかを判断する味覚よりも前の行為
そう考えると、「かじる」という行為
それは体内に物と入れることの是非を問う危険の判断手法とも言えると思う



そして鼻の穴の位置
それは口元にある物を「かじる」という行為を行うことの最終チェック機構ともいえるのではないか
嗅覚、それは、これは食べていいのだろうかという判断
鼻が単に酸素を吸い込むための道具にすぎないのであれば、鼻の穴は上を向いていても横を向いていてもいいのだ
なのに鼻の穴は下を向いて開けられていて、口の上にある
これも偶然とは思えない
鼻の穴の位置、手の骨格等、それぞれなぜそこにあるのか、なぜそういう骨のつぎ方なのかという理由を自分なりに考えれば、そういうことになる



ある物、ある行動、ある状態等そういったものに対し、それは何かを判断する探究心
それを失うと人類しての進化が止まると思う
パスカルだって、かつて言ったではないか
「人間は考える葦である」と
逆に言えば、何かを考えなければ人間も葦と何ら変わらない
違いは考えるかどうか
その探究心、好奇心がDNAの段階で「かじる」行為として人に誰にでも組み込まれているのではないか
小さい子どもが何かを口に入れようとするのも、決してお腹が減っているからではなさそうな場合が多い
おそらく小さい子どもが、何かを口に入れようとする行為は、大人が何かを「かじってみたい」という行為と同じなのではないか
大人が食べるでもなく「かじる」という行為をすることが少ないのは、おそらく経験による危険性判断の上達が理由なのではないか


そう考えたら、自分がたまに、何かを「かじってみたい」と思う気持ち
大人になりきれていないのかなぁ


リンゴをみて、ちょっとオーバーだけれど、考えがいろいろ膨らんだ


笑顔がハッピー物語る度 ☆☆☆☆☆
細かいことはええじゃなか度 ☆☆☆☆
結構なにげに深い熟練度   ☆☆☆☆☆