安っぽいという言葉

二つ以上のものから一つを選ぶとき、その判断基準として、「安っぽいから」というものがある。自分もたまに使う

安く見られるからダメだというのは、安いものはダメだということが根底にある

ではなぜ安いということがダメなのか

安いものはコストダウンをしていて、壊れやすいということが理由になるものであればそれは理由としてわかる

ただし、安いからといって必ずしも壊れやすいということにはつながらない

また、高級感があることで、他人に対して見栄を張りたいという気持ちがある場合には安いものを避けるというのも頷ける

それが電化製品だったり、服だったりする場合には、安っぽいという言葉が消極的判断の要素となることもわかる

しかしながら例えば本を表紙で選ぶとき

別に壊れるかどうかは関係ないし、値段で本の内容が変わるわけでもない

食品などはどうだろう

スーパーで買い物をするとき、値段が安い方がいたみやすいかと言えばそんなことはなく、むしろ保存料を使用していない食品の方が高い

また値段の高い物を食べることができたところで、それを一体誰に自慢したいというのか

ちょっと高い食品を食べているからといって、それを誰かに自慢したいと思う人は極めて少ないと思う

けれどもどちらの商品を買おうか迷った時に、パッケージを見て安っぽく見えるということでそれを買うのを避ける人は極めて少ないということはないと思う

そうであるならば高く見えるものを選ぶことで自己満足が得られるということになる

食品などは、栄養素以外で選ぶならば、単純に見た目の感覚的な好き嫌いで十分だろうに

けれども高級感あるものの方を選んでしまう時があるということは、単純に物を買うときの損得勘定が判断基準から離すことができないということになる

この値段の違いなら、こっちの方が金銭的に得をした気分になれる

そこに満足感を得る

洋服なんて別に誰かに見栄を張って自慢して着たいわけでもない

単純に好きな色や形かどうかだけ

それ以外に理由なんてないと自分は思っているのに、迷った時に安っぽいからやめようという気持ちが出ることがあるのは、自分も根底には誰かに高いものを着ているんだと無意識に自慢したいのか、そしてその高く見えるものを安く買えたという金銭的な損得勘定による自己満足なのか

物を選ぶときの判断基準は、あくまでもその物が本質的に良いものかどうか、自分の好みに合っているかどうか、という内面の問題で自己完結して選ぶべきであるにもかかわらず、他と比較したときの対比的な基準、他人性がつきまとう基準で選んでいるのだろうか

なんだか嫌だなあ

安いという言葉

単純に経済上の金銭的な意味以上のものがどうしてもつきまとう

安いかどうか、それは単に何かと比較したときの客観的な数字上の問題に過ぎす、良いか悪いかという主観的な問題は入れるべきではないと思うのは自分だけなのかなぁ



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はてなダイアリーからはてなブログへと移行すると、instagramの写真をそのままアップできるというのは便利かなと思う。

壊れていたノートPCは諦め、久しぶりにデスクトップにしたことでPCを起動することもまた多くなるのかな。

 

 

 

ジャンケンで勝つと嬉しく思うのはなぜなのか

大人は別として、小さな子供はジャンケンに負けると悔しがる
結構本気で悔しがる
うちの子どもだけではないと思う
その理由は何なのだろう


大人になってサッカーや野球、バスケットのような団体競技のみならず、マラソンや短距離走走り幅跳びのような個人競技であっても、勝つと嬉しいし、負ければ悔しい
その強弱に違いはあるけれど、嬉しさ、悔しさが少なからず存在することは否定する人はいないかと思う
スポーツであれば、それまで練習したことの積み重ねにより結果を出すという、いわば努力の現れば目に見える点が嬉しいのだと思う
できなかったことが少しづつできるようになれば嬉しいものだ
自分が成長したことを実感できるひととき

ではジャンケンのような、その勝ち負けが努力とは関係のない偶然性のものはどうだろう
ジャンケンの結果そのものは偶然だけれども、その結果によりついてくる付随的なものが異なるときはどうだろう
例えばジャンケンで何かの順番を決める程度のものであれば、普通勝ち負けにはさほどこだわらないことが多いだろう
ジャンケンで買った人が何かの権利をもらえるというのであれば、話は違ってくる
それが一つしかない美味しい食べ物であったり、ジャンの勝ち抜き戦で優勝者には商品が出るときなどだ
そんなときはジャンケンで勝てば嬉しいだろう
けれどもそれはジャンケンで買ったことが嬉しいのではなく、その結果得られる権利が嬉しいにすぎない
そう考えれば、ジャンケンのような偶然性のある勝負の場合、あくまでも間接的な嬉しさはあるかもしれないが、直接的な嬉しさはおそらく大人の場合はないと思う
勝ち負けは自分のあずかり知らぬところで決まるのであり、そこで一喜一憂することに意味はない
ジャンケン世界選手権なんて聞いたことがないから、おそらく全世界の人がジャンケンの勝ち負けにこだわっているということはないのだと思う


勝ち負けは何かしらの努力の結果に比例するものであって、人より頑張れたから嬉しいのだろう
そうだとすれば、子どものジャンケンはどうなのだろう
うちの子どもはジャンケンで自分が負けると結構本気で悔しがる
自分が勝つまでジャンケンを続けたがる
そこに努力の結果の比例は見られない
ただ純粋に勝ち負けに一喜一憂する
別にジャンケンに勝ったからといって、何かがついてくるわけでもなく、純粋にジャンケンのみで終わることなのだけれども、勝つと喜び、負けると悔しがる


勝ち負けは人の本能的なものなのか
人間に狩猟民族のDNAが残っているなどということはどう考えても無関係な気がする
勝ち負け自体は、お腹が減ったら何かをを食べるというような本能的なものではなく、あくまでもこれをやれば勝ち、これをやれば負けという、人が共同生活を営むうえで、そこに一定のルールを設けた結果にすぎないはずだ
決して本能的なものではないと思う
親なり友達なり、何かの機会に何らかの勝ち負けを決することがあり、その結果にともなって自分の欲しいものが得られるかどうか左右されることが過去にあって、それが記憶に埋め込まれているだけなのだろうか

おそらく歳をとるにつれ、ジャンケンの勝ち負けに今ほどこだわりを持つことはなくなると思う
それが物事を理解したことによる成長の証ということであれば嬉しい
偶然的ものに関し、勝ちを喜び負けを悔しがるということは、大人の一般社会では、あまり好ましいことでない気もするし
宝くじが当たれば嬉しいだろうから、偶然的なものに嬉しさを感じるのは別におかしくはないとも言えなくもないけれど、よく考えれば宝くじが当たって嬉しいのは、偶然性の結果ではなく、購入金額と比較してもらえる金額が多いというその額の差に嬉しさの意義があるのであって、100万円分宝くじを購入して10万円当たっても誰も喜ばない
同じようにクジで偶然に何かが当たってもそれは偶然の結果が嬉しいのではなく、もらえる商品等が嬉しいのであるにすぎない
そこに時間等含めた投資に対し、それを超えた利得を得られることに嬉しさがある
そう考えれば大人になってから偶然性そのものに対し、勝ち負けに一喜一憂することは普通はないと言えると思う

とすれば、子どもがジャンケンの勝ち負けにこだわっていることも時が経てば自然に忘れていくのだと思う
ただ、その勝ち負けにこだわる理由が、他の機会の影響でない場合、歳をとるにつれジャンケンの勝ち負けにこだわらなくなるのは、成長の証と言っていいのだろうか
もしかしたら何か大人にはもう理解できない、純粋なものがあるのだろうか
人はみな大人になるにつれ、いろいろなものを学んでゆくと同時に、いろいろなものを忘れてゆく
何を学んで何を忘れていくのかは、子どもを育てる親の影響が大きい
もしジャンケンの勝ち負けにこだわる理由が、子どもにしか感じることができないピュアなものとして存在するのであれば、親としてそれは持ち続けていて欲しいとも思う
他人に迷惑をかけるようなたぐいのものであれば困るのだけれど、そうでないならば、純粋に個人の内面の問題として、持ち続けていて欲しい
宮沢賢治のジョバンニとカムパネルラの話を持ち出すでもなく、宮崎駿氏の「となりのトトロ」の主人公の少女が象徴するように、純粋な子どもである妹と大人であるお父さんとの間で揺れ動くその微妙なバランス感覚が何となく今思い浮かぶ
親として子どもの成長はうれしい
嬉しいのだけれども、それは成長とともに忘れるものと、忘れてはいけないものの他に、別に忘れても覚えていてもどっちでもいいものもある
そういったどっちでもいいものを、覚えておいて欲しいと思うときがある
人としてこれから生きていく上でのピュアな気持ち
いや人間として生まれたときからの本能として持っているまだ汚されていないピュアな気持ち
そんなものはあってもなくても生きてはいける
やがて身に付く理性があれば他人に迷惑をかけずに生きていけるだろう
ただ、それはあっても困るものじゃない
そうであるならば、忘れても覚えていてもどっちてもいいもの
そういったものに関する今のピュアな気持ち
忘れないで育って欲しいと自分は思う




本日の今欲しいCD


metronome melody

yokota susumu 名義のCDは15枚持っているけれど、この名義で出したものはまだ持っていない
コメントを見る限り良さげだな
買おうかな




相変わらずのコンクリ打ちっぱなし度 ☆☆☆☆
夏にマイナス3℃度 ☆☆☆
土曜の朝のパン食度 ☆☆☆☆

絵を観るということ3

絵を観るという行為
絵を見て何かを感じるというに止まらず、何かを考えてしまうというその理由は何なのだろう

絵を観て何かを感じている状態
例えばなぜか微笑ましくなったり、寂しくなったり、懐かしさを感じたり、不安を感じたり
そこは決して自分の体験ではないにもかかわらず、まるで自分が体験してきたかのような気持ちになる

それらの感情が強ければ強くなるほど、やがて何かを考え出す
自分の感情という主観から一瞬抜け出し、客観的に絵を見つめ出す
そして考え出す
自分はこう感じたが、この作者は一体何を考えてこの絵を描いたのだろう
そんな風に見つめ直す


感じるということと考えるということ
その違いは言葉を使うかどうかにあると思う
両者の違いは理論的なものかどうかということもあると思う
だが結局は同じこと
言葉があるがゆえに理論的なものになるのだから


考えるという行為
それは他者に対し何かを伝達するということに主眼をおかず、自己の内面に対してベクトルが向けられたものであったとしても、言葉によって様々な感情と感情をつなげようとしている
感情から感情へのプロセスを理屈で埋め、次の感情を予測させる
そんは働きが言葉にはあるのだと思う
言葉があって初めて考える行為というものが成りたつのだと思う
それは決して音声を発するということではなく、頭の中での組み立ての前提として無音で存在するものだと思う


人が何かを考えるという行為
それは言葉が前提であり、人は言葉を使って生活している以上、常に感情と感情のつながりを無意識に理屈で考えているのだと思う
それゆえ、絵を観て何かを感じるという行為にとどまらず、何かを考えるという行為に及び、この作者は一体どんなことを伝えたかったのだろうと邪推することは自然な行為なのかもしれない


けれどもそこに正解はない
絵は観た人それぞれがそれぞれの気持ちで様々なことを感じて楽しめばよいのだと思う
観る人全員が評論家になる必要などないのだから
絵は描くまでは作者のもの
そして観る段階では、観ているその瞬間はもう作者のものではなく、観ている人その者のためにあるのであり、自由に感じ取ることに意味があるのだと思う
分析的に観る必要などないし、絵そのものに何らかの意味付けなど不要だと思う

絵を観るという行為
それはどうしても何かを考えてしまいがちではあるけれど、感じるということが本来の絵の楽しみなのだと思う


今日の買いたい画集

Conversations With Kostabi
古典でもなんでもないし、アートというよりもビジネスを強調するコスタビ
貴方はどうして自分の絵の料金をつり上げるのですかとの質問に対し、買った人たちが喜ぶからさと、本音とも冗談ともとれる面白い返答をした彼の画集は意外に少ない
人気のあった90年代に彼の贋作が出回ったことに対してどう思うかを贋作を前にして問われたときに、よくできているね、ホラと、自分でサインをし、これでこれは僕の作品さと回答を煙に巻く彼
本人一人で描いているわけではなく、チームとして描いてることからも、芸術家というよりは実業家と言ったほうが似合いそうだけれど、デ・キリコ好きにとっては彼の作品はたまらない現代風の良さをかんじる
これは持っていなくて長年どうしようかなと思っていたのだけれどまた欲しくなってきた




本日のyoutube

究極の愛ですな度 ☆☆☆☆
視線と声がセクシー過ぎ度 ☆☆☆
ちったあ笑え度 ☆☆

絵を観るということ 2

絵を観るということ
それはどのような行為なのか

画家の横尾忠則さんが、どかかで言っていた
こういう趣旨で描いたのだろうと解説者が自分の絵について評釈をつけているが、別にそんなことは考えてないと
特に何も考えずに描いているのであり、大きなお世話だというような趣旨であった記憶がある
絵は観た人それぞれがどう感じるか、それだけであり、絵そのものに主題の正解はないということだと思う
観た人の数だけそこに世界がある
そう言いたいのだと思う
絵は客観的な価値はなく、あくまでも主観的な価値しかない
つきつめればそういうことなのかな

まあ、絵には主観的価値しかないとまで言い切ると、反論はでてくるだろうなあ
経済的価値という意味では客観的価値のある絵もあるわけだし
また、経済的価値というものを考慮せず、その一歩前の、どうして経済的価値があるかを考えると、みんなが欲しいと思うからであり、ではどうして欲しいと思うかといえば、その絵を観たいからという単純な理由になる
観たい理由の中には有名だからというものもあるだろうが、有名だからというのみでは一過性の人気しか得られないと思う
数十年、数百年に渡って有名であり続けるためには、絵そのもに経済的価値を超えた何かがあるからであることはおそらく誰も否定しないと思う
そういった何百年もの間、多くの人を魅了してきた絵は、多くの人の主観的価値を満足させ得るという意味で、客観的価値を持ち得ると個人的には思っている
そういう意味で、ダ・ヴィンチや、ラファエロフェルメールレンブラント等、何億人もの人に愛されてきた絵は世界の財産であり、客観的価値を有すると言ってもいいと思う
万人受けはしないかもしれないデ・キリコの絵が個人的には好きなので、絵は主観的価値が大事であるということは否定しないけれども


そういった主観的価値を見出す行為である絵を観るということ
言い換えれば、考えるな、感じろということか
絵を観るという行為もブルース・リーの映画の有名な言葉と同じだと思う
「Don't think.Feel!」
絵を観て考えるという行為
それはどのようなことを意味するのか

考えるということと感じるということ
ブルース・リーの言葉とはだいぶ趣旨が違うけれど、考えるという行為
それは人が言葉を使う動物であるであることに、感じるということとの違いがあると思う

また長くなってきたので明日以降考える


昨日買ったCD

Mother [解説付き国内盤] (BRLR73)

yokota susumu としては全曲ボーカルをフィーチャーしたおそらく唯一のアルバム
できることであれば、打ちっ放しのコンクリートで、かつ天井がやたら高い部屋で、無駄な家具など一切ないような所で聴きたい
JBLで爆音で聴くのではなく、高い場所にスピーカーを設置して小音量で聴きたい
ひんやりとした心地よさがある
残念なのは家族以外にyokota susumuを聴く人が自分の周囲にいないこと



yokota susumuのボーカル入りならこっちの方が好きかも度 ☆☆☆☆
空飛んで冷たくなるかも度 ☆☆☆
そこまでボーカル引っ張るのか度 ☆☆

絵を観るということ

絵を観ていると、だんだんいろんな考えが膨らむ
なぜなのだろう
自分が描くことができないような素晴らしい絵であれば、こんな風に描いてみたい、描けたらどんなに楽しいのだろう、そう思って細部をじっと観入ってしまう
自分が思いもよらなかった発想の絵であれば、どんな気持ちで描いたのだろう
そういろいろ感じてしまう
いろいろ考えてしまう

特に抽象的な絵だと、観ていて湧き出る感情も様々

一体何を感じて描いているのだろう
何を描いているのだろう
無意識的条件反射的にそう考えてしまう

観るだけでいいのに、そこから先を考えてしまう
そもそも観るという行為は何なのか
それは決してカメラのレンズのように、脳に映像データを送りつけるだけの行為ではない
必ず、何かを感じるという行為が伴う
何かを感じるとき、それは言葉ではうまく言い表せないもやもやっとした漠然なもの
それがなんなのかはっきりしないとき、人はもう一歩踏み込んで、それが何なのかをはっきりさせようとする
そこに考えるという行為が生まれる
絵を観て考えるという行為が生まれると、どうもやっかいな気がする
作者はどんなことを考えているのだろう
そういった推測が始まる
感じるという段階でとどまっているのであれば、それは自分の内面で自己完結する話
作者がどのような気持ちで描いたのかは関係がない
観た人それぞれの様々な思いが、その一枚の絵から駆け巡る
そう、絵は個々の様々な感情・感覚の入り口
絵を観た人がその入り口をくぐると、観た人の数だけ別世界の旅に出る

しかしながら、絵を観て感じるという行為にとどまらず、考えるという行為に及ぶとそこは感情の旅への入り口ではなくなってしまう
作者はどんな気持ちで描いたのだろう
何を表現したかったのだろう
そう考え出す
けれどもそこに答えはない
解説に作者の気持ちが書かれていることもあるかもしれない
そうしたらそれは答えなのか

違うと思う

長くなってきたので、また後日考える




本日の欲しいCD


Clube Da Esquina



20年末以上前にCDで2枚組で売っていたときに、欲しいなと思いつつ、いつの間にか見かけなくなって買い逃していたCD
再発されて1枚組になってから曲数が減ったのかなと勝手に考えてそのまま放置していたのだけれど、曲数はLP当時と同じ21曲入り
当時の2枚組CDの頃は何曲だったのか覚えていない…
ジャケットの色も今のCDの方が明るく、昔のジャケットの方が配色が好みだったことも避けていた理由
LPでもいいのだけれど、気軽に聴けるという意味で買うとしたらCDかな



曲としてはこっちの方が好きかも度 ☆☆☆☆
ナルシスト目線がなんとも度 ☆☆☆
ブラジルの声 度 ☆☆☆

絵を描くということ

似顔絵を描くことが難しいのはなぜなのだろう
風景や人間以外の動物等であれば、正確に模写しようとした場合、客観的には別として、自分で、まあこれくらいならいいでしょ、というところまでは時間さえかければ似せることはできる
けれども人の顔だけは、どんなに時間をかけても自分で納得のいくものは描けない
デフォルメして特徴だけピックアップすることはできても、プロのようには似せて描けない
風景と人の顔、それはどこが違うのだろう
家族の顔であれば、風景以上に毎日見ている以上、描くときもそれなりに細かな肌の色の違いなどを意識しながら描きわけることはできるはず
にもかかわらず、実際に描いて見れば、どう見ても落書きの域を達しない

考えられる理由は2つ
ひとつは見ているようで実際にはよく見ていない
見たつもりになっているだけ
もうひとつは、見てはいるけれども、脳が描いている映像をそのまま手が再現できない
例えば円を描こうと思っても、なかなか真円にはならないのと同じで

後者は、ある程度訓練すれば素人なりに満足する程度にはなれるのかもしれないが、前者はどうなのだろう
見ているようで見ていない
見ているという行為
それはただそこにあるものをカメラのように脳に映像を客観的に送りつける行為ではなく、自分が意識的に必要としている情報を脳に送りつけているだけだと思う
例えば毎日会っている職場の人のネクタイの色なんて意識したことがないので何年たっても知らない
毎日通る道にある店も、自分が興味のないものであれば、何年たっても何の店だか知らない
じゃあ、意識すれば脳に映像が客観的に焼きつくかと言えば、それでも難しそうだ
例えばAとい文字をまじまじと見ているつもりでも、色、形、線の太さ、光沢の度合い、質感などすべてはいっぺんには頭に残らない
文字の書体も何十種類もあるだろうけれど、全部を区別するのは難しい
まして色なんて配色を変えれば何万どころ理論上無限に色の違いが出せる
似ている形、似ている色で判断し、自分の経験の中から、今見ているものは、きっとこの形のはずだ、きっとこの色のはずだ、そう無意識に判断しているにすぎない

そうであるとすればこれも経験をつめば、微妙な判断をできるようになるのだろうか
手を動かすことが経験で上手くなるというのはわかりやすいのだけれ、見ているものが経験をつめば人が見えていないものが見えるようになるというのは少し驚きを感じる
色弱等の個体差を除けば、自分が今見ているものは他の人も同じように見ているものと思っているのだけれども、厳密に考えれば、意識して見ているかどうかではなく、経験によって実際に見えているものが細かいレベルでは違うのかもしれない
見るというただそれだけの行為にも、経験が必要なものなんだなとふと思った




本日の買いたいCD

この中のDISCOVERYという曲が好きで、mp3でダウンロードして買ったけれど、CDでフルアルバムとして欲しいな

Gas 0095
著作権をクリアするため、amazonのアソシエイト申込済)




静けさ知的さ冷たさ度 ☆☆☆☆
深海生物海底二万里度 ☆☆☆
自転車ヘルメットにしか見えない度 ☆☆