絵を観るということ 2

絵を観るということ
それはどのような行為なのか

画家の横尾忠則さんが、どかかで言っていた
こういう趣旨で描いたのだろうと解説者が自分の絵について評釈をつけているが、別にそんなことは考えてないと
特に何も考えずに描いているのであり、大きなお世話だというような趣旨であった記憶がある
絵は観た人それぞれがどう感じるか、それだけであり、絵そのものに主題の正解はないということだと思う
観た人の数だけそこに世界がある
そう言いたいのだと思う
絵は客観的な価値はなく、あくまでも主観的な価値しかない
つきつめればそういうことなのかな

まあ、絵には主観的価値しかないとまで言い切ると、反論はでてくるだろうなあ
経済的価値という意味では客観的価値のある絵もあるわけだし
また、経済的価値というものを考慮せず、その一歩前の、どうして経済的価値があるかを考えると、みんなが欲しいと思うからであり、ではどうして欲しいと思うかといえば、その絵を観たいからという単純な理由になる
観たい理由の中には有名だからというものもあるだろうが、有名だからというのみでは一過性の人気しか得られないと思う
数十年、数百年に渡って有名であり続けるためには、絵そのもに経済的価値を超えた何かがあるからであることはおそらく誰も否定しないと思う
そういった何百年もの間、多くの人を魅了してきた絵は、多くの人の主観的価値を満足させ得るという意味で、客観的価値を持ち得ると個人的には思っている
そういう意味で、ダ・ヴィンチや、ラファエロフェルメールレンブラント等、何億人もの人に愛されてきた絵は世界の財産であり、客観的価値を有すると言ってもいいと思う
万人受けはしないかもしれないデ・キリコの絵が個人的には好きなので、絵は主観的価値が大事であるということは否定しないけれども


そういった主観的価値を見出す行為である絵を観るということ
言い換えれば、考えるな、感じろということか
絵を観るという行為もブルース・リーの映画の有名な言葉と同じだと思う
「Don't think.Feel!」
絵を観て考えるという行為
それはどのようなことを意味するのか

考えるということと感じるということ
ブルース・リーの言葉とはだいぶ趣旨が違うけれど、考えるという行為
それは人が言葉を使う動物であるであることに、感じるということとの違いがあると思う

また長くなってきたので明日以降考える


昨日買ったCD

Mother [解説付き国内盤] (BRLR73)

yokota susumu としては全曲ボーカルをフィーチャーしたおそらく唯一のアルバム
できることであれば、打ちっ放しのコンクリートで、かつ天井がやたら高い部屋で、無駄な家具など一切ないような所で聴きたい
JBLで爆音で聴くのではなく、高い場所にスピーカーを設置して小音量で聴きたい
ひんやりとした心地よさがある
残念なのは家族以外にyokota susumuを聴く人が自分の周囲にいないこと



yokota susumuのボーカル入りならこっちの方が好きかも度 ☆☆☆☆
空飛んで冷たくなるかも度 ☆☆☆
そこまでボーカル引っ張るのか度 ☆☆