絵を描くということ

似顔絵を描くことが難しいのはなぜなのだろう
風景や人間以外の動物等であれば、正確に模写しようとした場合、客観的には別として、自分で、まあこれくらいならいいでしょ、というところまでは時間さえかければ似せることはできる
けれども人の顔だけは、どんなに時間をかけても自分で納得のいくものは描けない
デフォルメして特徴だけピックアップすることはできても、プロのようには似せて描けない
風景と人の顔、それはどこが違うのだろう
家族の顔であれば、風景以上に毎日見ている以上、描くときもそれなりに細かな肌の色の違いなどを意識しながら描きわけることはできるはず
にもかかわらず、実際に描いて見れば、どう見ても落書きの域を達しない

考えられる理由は2つ
ひとつは見ているようで実際にはよく見ていない
見たつもりになっているだけ
もうひとつは、見てはいるけれども、脳が描いている映像をそのまま手が再現できない
例えば円を描こうと思っても、なかなか真円にはならないのと同じで

後者は、ある程度訓練すれば素人なりに満足する程度にはなれるのかもしれないが、前者はどうなのだろう
見ているようで見ていない
見ているという行為
それはただそこにあるものをカメラのように脳に映像を客観的に送りつける行為ではなく、自分が意識的に必要としている情報を脳に送りつけているだけだと思う
例えば毎日会っている職場の人のネクタイの色なんて意識したことがないので何年たっても知らない
毎日通る道にある店も、自分が興味のないものであれば、何年たっても何の店だか知らない
じゃあ、意識すれば脳に映像が客観的に焼きつくかと言えば、それでも難しそうだ
例えばAとい文字をまじまじと見ているつもりでも、色、形、線の太さ、光沢の度合い、質感などすべてはいっぺんには頭に残らない
文字の書体も何十種類もあるだろうけれど、全部を区別するのは難しい
まして色なんて配色を変えれば何万どころ理論上無限に色の違いが出せる
似ている形、似ている色で判断し、自分の経験の中から、今見ているものは、きっとこの形のはずだ、きっとこの色のはずだ、そう無意識に判断しているにすぎない

そうであるとすればこれも経験をつめば、微妙な判断をできるようになるのだろうか
手を動かすことが経験で上手くなるというのはわかりやすいのだけれ、見ているものが経験をつめば人が見えていないものが見えるようになるというのは少し驚きを感じる
色弱等の個体差を除けば、自分が今見ているものは他の人も同じように見ているものと思っているのだけれども、厳密に考えれば、意識して見ているかどうかではなく、経験によって実際に見えているものが細かいレベルでは違うのかもしれない
見るというただそれだけの行為にも、経験が必要なものなんだなとふと思った




本日の買いたいCD

この中のDISCOVERYという曲が好きで、mp3でダウンロードして買ったけれど、CDでフルアルバムとして欲しいな

Gas 0095
著作権をクリアするため、amazonのアソシエイト申込済)




静けさ知的さ冷たさ度 ☆☆☆☆
深海生物海底二万里度 ☆☆☆
自転車ヘルメットにしか見えない度 ☆☆