もし透明人間だったら

誰しも一度は考えたことがある
今日もその話題を振られた

どこに行きたいか
何をしたいか
そんなことを考えると思う

でもなんで?

姿を見せたままでは行かれないところがあるから?
できないことがあるから?

そりゃそうだ。
こっそり行ってみたい場所はたくさんある
やってみたいこともたくさんある


行ってみたい所
入っちゃいけない所
人は誰しも禁止されると、それに意識が向いて、禁を破りたくなるところがあると思う

禁止されていなければ意識が向かないのに
人間はみな天の邪鬼の部分があると思う

特に自分…

通行禁止の道路なんて、その最たるものだ
立て札を見ると、その先に行きたくなってしまう

でもこれは透明人間でなくてもいいなあ


透明人間だったら、スペースシャトルにこっそり乗りこんで宇宙へ行きたいなぁ

このこっそりというのがいいのだ

自分の存在を消す喜び

かくれんぼが楽しいのときっと同じだ

透明人間になったらと期待する気持

それはきっと、どこかへ行き、何かをしたいからではなく
隠れる行為そのものにあこがれがあるのではないかな


隠れて何かをするという行為
それは何らかの禁止規範を意識しているということ
禁止規範を意識しているからこと、欲望の赴くまま堂々と何かをするということはしない

何かをしたいという本能と
他人の存在を前提とした社会生活の中で、何かをしてはいけないという理性

これら相対立する二つの要求を満たそうとするとき
そんなとき透明人間だったら…と考えてしまうのではないか

つまり、透明人間だったら…と考えることは、本能で生きる動物との一番の違いなんじゃないだろうか


人は大人になるにつれ、理性が多くなる
理性という名のもとに、本能にブレーキをかけている部分もあるんじゃないか

そうだとすれば、大人になっても透明人間だったら…と考える行為は
本能があることを包み隠すようなことはせず、理性と本能を素直に共存させようとする実に人間にとってピュアな行為なんじゃないだろうか


いい歳をしていつまで子供じみたことを言っているんだという大人も多いけれど
いくつになっても透明人間だったらと考える行為は、素直な気持ちを持ち続けているとも言えるんじゃないだろうか

ダンスで万歳度  ☆
いつまでも乙女度 ☆☆
指パックンチョ度 ☆