珍しい物を見たときの言葉

あまり見かけない自転車に乗っていると、街中で交差点に止まるごとに声があがるのが聞こえる
一番多いのは「何あれ?」
興味を持った人ならば、「いいなあ、あれ」
小さい子だと素直だ「変なのぉ」

不思議に思ったのは、外国人の声と日本人の声に差があることだ
外国人の場合、「何あれ?」と呟いている人は皆無だ
興味を持った外国人であれば、必ず「かわいいね」「それいいね」「レンタルできるの?」
そういった積極的思考で話しかけてくる
1000人か2000人かは分からないけれど、それ以上の数の声を聞いてきた
その中で、興味を持って積極的な内容で話しかけてきた日本人は数えられるくらいしかいない
多くは「これ何ですか?」で終わりだ
商売ではなく、ただの趣味で乗っている自分にとって、いつも同じことを聞かれていつも同じことを答えるのはあまり好きではないし、だいたい目立つのは嫌いなので、なるべく気にしないでほっといてよと内心思うのだけれど



「何あれ?」と言われても、見たとおり、ただの自転車だ
3人乗りの自転車なので、親子で前に乗っていると、目立つと言えば目立つけれど
ただ街中でよくお母さんが乗っている実用車とは、ちょっとだけ形が違うだけだ
それは聞かなくても、見た瞬間わかるはず
けれども日本人の多くは「何あれ?」なのだ


なぜ「何あれ?」というのだろう
「何あれ?」という言葉を発するとき、おそらく2つの場合が想定できる
1つは自転車なのは分かるが、自分の知っている自転車と形が異なるため、その違いを一瞬理解できないことによる発言
もう1つは、自分の知っている自転車とは形が異なるため、そもそも自転車であるはずがないという思い込みから出る発言


前者の方が多いはずなのだけれど、どう見ても後者の方が多い感覚を受ける
見れば分かるのに、一瞬思考回路が止まっている
おそらく自分の経験した知識から「自転車」という概念を固定している
自転車はこういうものだと決めつけている
決めつけていないのであれば、「何あれ?」ではなく、「珍しいね」という発言が飛び出すはず


今、自分の目で見ている物が自転車の一種であることは、少し考えれば誰でもわかる
けれどもその少しの考えの前に、「何あれ?」の言葉が先にでる
自分の経験によって得た「自転車」という概念に当てはまらない自転車
視覚によって今現実に見ているものよりも、記憶によって培われた目で見えない概念が先にでる
現実にあるものよりも、現実にないものが優先される


視覚から得られる現実の判断
それはかくも頼りなきものなのか



見たものを見たまま、知識や経験によらずに、自分の頭でそれをキャッチする
自己が有している概念にとらわれずに判断する
それはおそらくとても難しいものなのかもしれない
それができて、かつそれを外部に表現できるのは画家などのアーティストなのかなあ


この点、自転車に興味を持った外国人の中で、その多くが「何これ?」とは言わず、積極的に「作ったの?」とか「どこで借りられるの?」といった発言は、彼らの思考回路が、自分の経験から得られた概念ではなく、今、自分の目で見ているものものから自分の頭で考えた結果なのだと思う
そういった訓練というか、生活スタイルというか、思考回路になれているのだと思う


人はどうしても自分の経験したことからしかものごとを考えない
それが日常生活であっても、仕事であってもきっと同じ
経験したことがない出来事が現れるとき
経験したことが現れるとき
それらはおそらく無意識に何かが違っている
今、目の前にあるできごとが、自分の経験したことにない事柄であるとき
それを素直に見つめ、知識ではなく感じること、自分の目で考えること
そういうことができるようになりたいと思う



おちゃめなサウンド見た目のまま度 ☆☆☆☆
なんも深く考えてません度 ☆☆☆☆☆
軽さも気分も晴れ晴れ度 ☆☆☆☆