批判する精神⑤

昨日の続き(ありゃ、12時過ぎた、一昨日か…)


反対意見、それがあることに気づくことは意外に難しい
どこにも不満点がないとき反対の価値観は見えにくくなる
ある意見に欠点があるとき、そのときそれを改善しようとする価値観が生じて反対意見がでる
すなわち、欠点を批判することで反対意見が見えてくる
けれども、一つの意見を批判することと、他の意見の理由付けは違う
他の意見を批判することは、その説の消極的理由付けではあるけれど、積極的な理由付けには成り得ない
消極的理由付けは考えてみれば簡単だ
ある物事の現状に対し、ある意見が功を奏していないという結果を指摘すればすむ
すなわちその視点は過去の行為
けれども積極的理由付けは、その意見をとることで、ある物事が将来、功を奏するという期待でしかないことが多い
すなわちその視点は未来の結果
1分前は過去、すなわち歴史的な事実
これに対し1分後は未来、すなわち不確定な予想
人は時間の流れの中で生活するのだから、思考過程も時間によって作られ、決定されるのは仕方のないこと
未来のことなんか誰にもわからない
過去の事実を見つめることは誰でもできる
未来をとらえることは、単純な淡い期待でしかない
批判、それは過去の事実に対する確認という楽な作業をしながら、未来に期待するという楽観がある
人は楽な方、楽な方に気が向きがち
それゆえ、批判は簡単なんだろうなあ
人はみな、自分の過去を見て、できないことがあると、無意識にできないことの言い訳を探しだしている
でもなあ、ちょっとなあという消極的理由付けにより、ある物事を否定する場合、人は自分の出した結論に納得のいく理由付けを気付かないうちに探し出している
そこには事実が先にあるのではなく、自分なりの評価が先行しているといえる
それは、やってみなければわからない将来の出来事に対する不安と同質性を有するといえるのではないか
批判もそれと同じだと思うのだ
それは楽な方に楽な方に気が行きがちな人間の本性に由来するものなのではないか


そう考えてみれば、異なる意見の立場から、ある意見を批判するという消極的理由付けが多くなるのは無理からぬことなのかなあ
いま文章にしながら考えてそう思った

人は批判を聞くことで、何か真実が見えたかのような誤解を受けていると思う
批判はあくまでも批判にすぎず他の意見を肯定するものではなく、決して他の意見が真実であることを意味しない
けれども何か批判を聞き、それがもっともだと一度納得すると、それにしか目がいかなくなりがちになる
それは思考過程の構造を考えると防ぐことのできない連鎖なのかなあ
なんだか、悲しい気もするけれど…


ラジオで評論家を名乗る人のコメントを聞いて、ちょっと違和感を持ち、考えごとをしたら、えらい長くなってきた


なぜ人は批判をするのか
なぜ人は批判を聞くのか

考えると難しい
また今度考えよう



PVとは雰囲気違う度            ☆☆☆
すました笑顔に流し眼が杉さんもビックリ度 ☆☆☆☆
気取った直立不動ダンスも笑顔が可愛い度  ☆☆☆