五感、特に視覚と聴覚

視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚
これらの五感は、何かが欠ければ、何かがそれを補うように感覚が鋭くなる


新生児はまだ視覚が十分でないらしい
その代り嗅覚が大人の100倍もあるらしい
やがて視覚が増していくごとに、嗅覚は衰えていく


健常者が点字を読み取ろうとしても、触覚が研ぎ澄まされていないためか、なかなか読みづらい


多くの人は普段の生活で視覚について何かを考えることはない
視力が悪くても、眼鏡なり、コンタクトなりで矯正して生活している以上、その視覚について考える機会は少ない


考える機会が少ない以上、他の感覚とのかかわりで、その感覚の強弱を感じることもおそらく少ない
感覚、それはあくまでも感覚であって、理屈ではない
それゆえ、頭の中で考えたとしても、それを理解することは不可能
理屈、それは感覚とは別のもの
理論だてて思考を整理する
感覚は言葉では言い表すことはできない
それは感情を言葉にすることができないのと同じ
近い言葉で言いかえることはできるけれど
完全に一致する表現は不可能
感覚は微妙
数値で表すことはできない
感覚を近い言葉で言い換えた瞬間に、それはもはや感覚であることを自ら見失う


何かを触ったとき
触っているという触覚
それは触るという言葉をあてはめただけ
触るという手の動きは行動
それは目で見えるもの
触るという言葉で言い換えることは容易だ
触っているという感覚
それは目で見えないもの
何かがあたっているという感覚
目に見えない、形のないもの
形が無い以上、それを他人に指し示すことはできない
指し示すことができない以上、その感覚は、他人と正確な共通認識を持ちえない
正確な共通認識を持ちえない以上、決して言葉で言い表すことはできない
言葉は共通認識があって成り立つものなのだから

触っているという感覚と触っているという行動は違うのだ


何かを食べているときの味覚
それは美味しいものを食べているという感情表現とは違う
甘い、辛い、苦い
そういった味は、ある程度の共通認識を持ちえるからこそ言葉で言い換えることができる
けれども甘い、辛い、苦いという感覚自体は、表現できない
砂糖は甘い
それは、砂糖の味を甘いと表現しようという共通認識にたっているだけ
社会生活をするうえで、そうしないと不便だからそうしているだけ
糖度は数値化することができる
けれども、それを個々人がどういう風に味覚として感じ取っているのかなど、決して分かりはしない
多分そうでしょうという想像にすぎない
「甘い」は文字、言葉の「甘い」であって、それは決して感覚ではない
言葉で「甘い」と表現することで、この味は「甘い」のだと頭の中ですり替えられる
感じたことが、言葉というフィルターを通すことで、共通認識のメモリーに置き換えられる

感覚は、言葉によって、その感覚としての使命を終えるとも言える
終わってしまうとも言える


感覚
それは失うものなのか
失っていいものなのか

なかなか難しい

明日以降の思索に続く




歌は詩だ度         ☆☆☆☆
詩は言葉だ度        ☆☆☆☆
言葉、それ自体が音楽だ度  ☆☆☆☆☆