新聞②

人は、何故、自分と関係のない、事故・事件を知りたがるのか
新聞の社会面をなぜ読むのか


考えたけれどなかなかしっくりこない


政治経済面とは違って社会面
間接的にすら自己の生活とは無関係


例えば雑誌
月刊誌の多くはおそらく趣味の世界
何らかの興味があって読むもの


週刊誌の多くはおそらく趣味とは言えない世界
それでも何らかの興味があって手にとるものだと思う


それとは違い新聞
趣味とする人は少ないと思う
興味があるかどうかで読むものではないと思う
何らかの情報を知識として得たいから読む
そういう性質のものだと思う


では、活字として情報を得る
それはどのようなことを意味するのか
少し考えてみる


活字として書かれたもの
通常それは自分で経験したことではないことが書かれる
自分の言葉でないことが書かれる
自分の言葉でないものは、なかなか伝わりにくい
伝わっているようで伝わっていない
誤解も多い


活字での誤解
それは、活字で物事を伝えることの難しさに原因がある


かわいいけれど太っているね
太っているけれどかわいいね


どちらも同じと言えば同じだが、違うと言えば違う


「かわいいけれど太っている」
かわいいという主観
これを、「しかし」という逆説でつなげる
平均的体格よりもという数値の上での客観に続ける
主観「しかし」客観
日本語の場合、ここで強調されるのは「しかし」の後にでる言葉
ここでは、太っているという客観


この文章の前提となる主観は、かわいい=たいてい痩せている
そういった価値判断が隠れている
本来太っているという客観だけでは、何らの価値判断も入らないものなのに、前提となる主観に価値判断が入ることにより、後に出る客観面でも価値判断が含まれてしまう
太っている=もう少しやせたほうがもっとかわいいんじゃないの
そういう価値判断が見え隠れする
マイナス要素、否定的な要素が浮き彫りになる


「太っているけれどかわいい」
客観「しかし」主観
ここでは太っているという文字そのものは、価値判断は含まれない
けれども「しかし」でつなげる主観により、遡って客観に価値判断が加えられる
かわいいという主観=通常はやせている人がかわいいという1つの価値判断
太っているという客観に、やせている人がかわいいという価値判断が続くことで、通常太っているとかわいくないのにという価値判断が含まれていたことが初めて顕在化する
その顕在化した価値判断=マイナス要素、否定的な要素は、後に出た主観の影に再び隠れてしまう


主観「しかし」客観
この順番で話がすすむ場合、客観面が出てきても、前提となる主観を踏まえているため、読み手、聞き手は、推測が可能だ
これに対し、客観「しかし」主観
この順番で話が進む場合、前提となる客観面に、実は価値判断が潜在化しているということに読み手、聞き手は、すぐには気付き得ない
後にでてくる主観面を読んだり、聞いたりして初めてそれに気付く
それが短い文章、会話であれば、言わんとしていることはすぐに気付くので不自由はしない
しかし長い文章や、会話であればあるほど、その前提となる客観面に、読み手が伝えたい価値判断は伝わりにくくなる
それをあえて隠して話すのであれば、それは客観と主観がごちゃまぜになり、気付かぬうちに、書き手、話しての自由な価値判断のもとに、ある事実という客観が作られていく気がしないでもない



会話であれば、対話の中で、話しての表情が見える
またこちらの疑問をぶつけることもできる
しかし、活字にはそれがない
書かれてある文字を一方的に受け入れるしかない
そこに書かれてある文字
それは事実と言う客観と、価値判断という主観
それが様々に、あるところで潜在化し、あるところで顕在化する


活字は難しい
それでもなお、人は新聞を読む
おそらく今後、そんな媒体になるにせよ、新聞はなくならないと思う
人は、何故、自分と関係のない、事故・事件を知りたがるのか
新聞の社会面をなぜ読むのか


なかなか難しい
明日以降の思索に続く



ボーカルが出るまで遅すぎだ度     ☆☆☆☆
今はあり得ないこの動き度       ☆☆☆
うまさじゃない、雰囲気がいかしてる度 ☆☆☆☆