写真③と日記

目で見た風景と写真との違い

もちろん大きさを忘れることはできない

人の顔が映っている写真に、自分が興味をわかないのは、ひとつにはその非現実的な大きさもあると思う
どんなに正確に再現された写真でも、1枚のスナップ写真の大きさの人は現実にはいない
それは想像の世界

現実にはこういう感じだったと、ある時点の記憶を喚起させる一つの手段にすぎない

そうだとすれば、人の顔を写真で見ること
特に自分が映っている写真を見ること
それは、過去の自分を思い起こす行為にすぎない


自分が写っている写真を見ることに興味がわかないのはなぜなのかを考えたとき、日記も同じだなと感じた
今日は何をした、どこどこに行った
そういった思い出すという行為の日記を自分で書くということにあまり興味がわかない

人の日記を読むのは大好きだ
それは、読んだその場で、今を感じることができるから
他人の文章で、今を感じることができるから

人の顔が映っている写真も、自分の行動記録の日記も、自分にとっては過去のもの
だから自分は興味がないんだろうなあ



何かを書いて誰かに情報提供をしたいわけでないし
何かを求めているわけでもない

自分がそのときその一瞬、何を考えて、何を感じたか
文書にすることで、気付かなかったことが思い浮かぶことがあるから
文章にすることで、もやもやしていた感覚が、輪郭を持った考えに変わることもあるから
物忘れがひどくなったのをきっかけに自分が日記を付け続けているのは、多分そんな理由なのだと思う

しいて誰かのためにといえば
自分に何かあったとき、「お前の親父はこんなことを考えている奴だったんだよ」「あんたの旦那はこんなことを日々感じていたんだよ」そういったものを、将来いつの日かのために家族に残してあげたいと思う



暗くなってから始まるのさ度  ☆☆☆☆☆
ボントロは人の声に似ている度 ☆☆☆☆
くるろぎまったりおっとり度  ☆☆☆☆☆