距離感

たまたま通りすがりの何かのブログを覗いていたら、高田馬場の某有名ラーメン店の話がでていた

最近その店は、もともとあった場所から数百メートル移動したのだけれど、その人は、その数百メートルの移動に関し、「せっかく来たのに歩いて行くにはちょっとなぁという距離に移動してしまって残念だ。」という趣旨の内容を述べていた

ちょっと驚いた
だってわずか数百メートルですから

よっぽど忙しかったのなら別だけれど
その人はそういうわけではなく、しかもその店に来るだけのために、わざわざ電車に乗ってきたからだ

だったら、数百メートル歩けばよかったのに


オートバイや自転車に良く乗る自分にとっては、10Km位ならオートバイでちょっとそこまで、という距離だし、数キロ位なら自転車でちょっとそこまで、という程度の距離でしかない



どんなに忙しくても、数百メートルという距離は、わずか数百メートルであって、わざわざ数百メートルという発想は、全く出てこない

数百メートルを歩くのを億劫だと思ったことは一度もない


でも、もしかしたら、それは自分の感覚が少数派なのかもしれない


街中の駅周辺が栄えるのは、大概は駅から数百メートルだ

移動手段として電車か車を主とする人たちの感覚は、数百メートルを超える移動でも歩くのが当たり前という発想がないのかもしれない

そこでふと思った

日本での毎日の生活移動手段としては自転車、オートバイ、車、電車等を多くの人が利用する
これらを利用しない国の人たちは、数百メートルをいう距離をどう感じるのだろう

日本で駅周辺数百メートルが栄えるのは、生活移動手段として、これらの手段を利用しているせいなのではないか、もしそうだとしたら、これらを移動手段としてメインにしない国の駅周辺の栄え方は同じようになるのだろうか


外国でなくても、例えば、移動手段としての電車という手段がない沖縄などはどうなのだろう

山間部の人たちは、移動には自転車は大変そうなので、車が多くなると思う
そうすると、自転車を多く利用する街と、人々の感じる距離感は違うのだろうか

デンマークなどは、自転車利用が世界で最も盛んな街と紹介されている
彼らの距離感はどうなのだろう

普段の生活の中で感じる物理的な距離感が違えば、文化文明の発展の違いも徐々に影響すると思う
それは精神的な距離感にも影響すると思う

何を億劫と感じるか
それは単に移動が面倒だと感じるだけではなく
何を必要とし、
何を不要とし、
ゆくゆくは、他者との意思伝達手段も影響し、
個々の感じ方、考え方も変わると思う

これは決して狭い範囲での距離感をマイナスにとらえ批判しているわけではない
狭い範囲での距離間ならば、その分、その範囲の中でのコミュニケートは密度の濃いものとなる
広い範囲での距離感ならば、密度は薄いが、広範囲のコミュニケートとなろう


どこに意識が集まるかの違いにすぎない


距離感が広いことと狭いことに違いがあるとしたらそこにあるのではないか
ふとラーメン屋さんの移転から、イメージが膨らんだ


口パク???度          ☆☆☆☆
どどかぬ想いはどこへ行くのだ度 ☆☆
たまにはあんたも歌え度      ☆☆☆