正しい報道

日経の社長のいう「正しい報道」とは、何を意味するのか

事実をありのままに伝えることが「正しい報道」なのか

嘘を報道することは論外だけれども、ありのままの客観的事実をどれだけ活字や映像で伝えることができるのか


1995年(平成7年2月22日)のロッキード裁判最高裁大法廷の裁判を傍聴しに行ったときの出来事を思い出した
当時、今世紀最後の刑事裁判での大法廷と噂され、しかもロッキード事件の最後の日ということもあり、裁判所の前は傍聴を希望する人であふれていた
友人と4人で並んでいたのだけれど、傍聴人の列の前の方から順に日経の人が取材をしていた

友人の番になり、当時丁度勉強していたこともあり、
「違法収集証拠排除の原則について、最高裁が初めて判断するかもしれないので、その点が楽しみです」
そう答えると、日経の人、ああそうですかと取材したその内容をメモするわけでもなく、さっさと次のもう一人の友人に取材した
「総理大臣の犯罪にかかることなのに、思ったより人が少ないので驚きました。関心が薄いのでしょうか。少し寂しいですね。」
そういうと、その記者、我が意を得たりと言わんばかりで、ニコニコして、明日の新聞に掲載するかもしれませんがいいですかと聞いてきた

翌日、日経の社会面にそのことが掲載されていた
カギカッコ付きで、さもそれがそのまま会話されたような書き方だったが、紙面の分量の関係で多少の要約はされている
しかも、<ほら一般国民はこんなことを思っています>風な書き方だ

ちょっとまってくれといいたい
発言の内容に嘘はない
なので確かに事実を伝えているとはいえる

しかし、それがさも一般国民の多数派の感想のような書き方をされるのは如何なものか
記者は、そのコメントが出るまで、さんざん他の傍聴者に聞いていたのにだ
このコメントは、あそこでこの記者に取材を受けた数十人の中のたった一人のコメントでしかない

そうだとすれば、この記事は、記者一個人、もしくは、日経の方針として、書きたかったことを書いたに過ぎない
書きたいと思う同じ意見がでるまで、ただひたすら、取材し続けたのだ

確かに国民がこう感じています、こんなことを言っていますと紙面に書くのはいいことだ
少なからず取材に基づくものであれば、事実であるには違いない

しかしながら、それは記者の側が、あくまでも主観的に書きたいと思ったことをがあったけれど、それを自分の意見として紙面に載せるわけにはいかないページだった場合に、同じ意見のコメントを探し続けた努力の結果だ。
意地悪く極論を言えば、自己の発言の責任に関し、取材したということを隠れ蓑にすることによって、責任逃れをしているともいえなくはないではないか

とはいえ、新聞紙面という限られたページの中で、国民の意見を紹介するにも物理的な限度がある
無駄なコメントをだらだら新聞に書かれたら、購読者は無駄な時間を食った、金返せとなる
そんなことが続けば、他社の新聞に乗り移られるだけだ
新聞社だって、報道という立場の前に、商売であることは否定できない
購読してくれてなんぼの世界だ

そうである限り、「事実」を伝えるのは、客観的事実をそのまま右から左へ伝えることが正しいことだとは思えない

この日経の社長、「正しい報道」を伝える使命があるかのように張り切ってコメントをしているけれども、はたしてそれがわかっているのか

紙媒体のみならずWeb版の充実へと力をいれるのはいいことだけれど、Web版にしたところで、「事実」を伝えるのは難しい

Webで情報があふれる中、何が正しい情報なのかわかりづらい点に関し、日経の社長は、Web版を有料にすることで「紙の新聞でつちかってきた正しい報道、価値のある言論を伝えていかなければならない」とコメントしているけれど、
Web版を有料することでこれが簡単に出来るとも思えない

紙で難しいのだから、それをそのままWebにしたからといって、何かが変わるはずもない

これだけの情報過多の中、<有料だから正しい情報なのだと思うだろう>というのは、あまりにも一般国民を馬鹿にしている気もしないではない

とはいえ、情報の受け手の側にとってみれば、それを利用するかどうか個々それぞれだけれど、選択肢が増えるという点に限ってみれば、とてもよいことだと思う



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