遊ぶということの意味
ロジェ・カイヨワ
初めて知った
「遊び」を研究した人だという
遊びの4分類
第1:アゴーン(競争)
第2:アレア(運との戯れ)
第3:ミミクリー(真似)
第4:イリンクス(渦中に入る)
なるへそ
さらに、この4つの遊びの背景に「パイディア(興奮)」と「ルドゥス(困難に立ち向かう意識状態)」があるという
ふむふむ
松岡正剛氏、ここで、彼の説を、パイディア的になるのもルドゥス的になるのも利得を越えるものがあり、無償でもかまわないという気分になるときのこの無償性が大事だと分析している
なるほどなあ
分かりやすい
遊びには、無償性がキーワードだ
趣味とはなんぞやということを以前考えたことがある
好きなこと
それだけで考えると幅広くなる
もう少し絞ってみる
それを始めたとき、いつでもやめようと思えば自分の意思で自由にやめることができるもの
そういう結論に達したことがある
好きな時に好きなことをできることという定義をしてしまうと、働いているときはできないものは趣味ではないのかということになってしまう
ゆえに、始めるときではなく、止めるとき、に視点をおいて考えてみた
趣味には、有償性のものもあるだろう
「遊び」について考えたことはなかったなあ
遊びのキーワードは無償
なるほどなあ
続けて松岡正剛氏はいう
「遊びがこうしたパイディア性(興奮)とルドゥス性(困難)をもっていることは、遊びが欲得ずくではなく広まっていく本質をもっていることを示すとともに、ついつい欲得ずくになる大人たちの遊びからは遊びの本質が薄れていった」とカイヨワ氏を解読している
なるほどなるほど
言われてみれば、子供の遊びと大人の遊び
どこが違うかと言えば、欲得が入るかどうか
小さい頃にはおそらく今のような欲得はなかった
遊んでいても、そこで何か対価を求めていたわけではない
ただそうしていたかっただけ
いつの日か大人になるにつれ、遊びに有償性のものも入ってきた
でもそれは、遊びの本質からは、かけ離れた遊びなんだなきっと
娯楽だな、そういうのは
娯楽と遊びは違うということだなきっと
例えばMTBで山を駆け巡る
そこには対価性はない
無償のもの
だからこそ遊びなんだよなあ
大人になるにつれ、無償性のものが少なくなる気がする
それはなぜなのかな
いろいろな遊びを覚えたから?
選択肢は広いほうがいい
でも、それで遊びの本質からかけ離れたものばかりで満足しなくなるのであれば本末転倒だ
小さな頃は、選択肢は今より少なかった
でも今と比べてつまらなかったかといえば、決してそんなことはない
別に原点へ帰るべきというのではない
いろいろな意味で、今更、小さなころへは戻ることはできない
戻ることはできないけれども、どこかきっと忘れているものがある気がする
宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出てくる、現実の世界の象徴とも言えるジョバンニと、非現実の世界の象徴ともいえるカンパネルラ
この2人の会話が、どことなくつながる宮崎駿監督の「となりのトトロ」
お父さんは、おそらくジョバンニ
妹はおそらくカンパネルラ
主人公のお姉さんは、この両者の間を精神的に行ったり来たり
現実と非現実の世界を渡り歩くキーマン
この映画の出だし
「忘れていたものを届けにきました」
あのタイプがカシャカシャカシャと音をたてて流れたとき、ふと、熱いものを感じた
理由もなく、それだけで何か、考えさせられるものがあった
カイヨワの遊びの研究
それも、あのときの感覚と同じものを感じる
忘れていたもの、忘れかけていたもの
おそらくこれから忘れていくであろうもの
遊びとはなんぞや
純粋な遊び
ピュアな遊び
小さなころのこと
忘れてはいけないものもあるとあらためて感じた
歌、それは最大の遊びかも度 ☆☆☆☆
この髪型は、今はないな度 ☆☆☆
笑顔で歌えばなんでもハッピー度 ☆☆☆