天気予報とその情報�

昨日からの続き


情報が独占された過去の反省を踏まえ
情報は共有が原則となってきた


気象衛星の情報もしかり
その情報を様々な会社が取得し
それぞれの利用の仕方で天気予報をたてる


情報自体は単なるデータ
だからこそ各種会社が利用することにより、様々な解釈がありえることになる
様々な解釈がありえることに意義を見出す人がいるからだよなきっと


でもはたしてそのような利用は常に有意義なものといえるのか
例えば経済予測
それは予測困難な様々な結果が起こりうるからこそ、データは共有され、様々な解釈が存在することに意義がある


これに対し天気予報
それは雨が降るか降らないかのニ捨択一
曇りを入れても、晴れ、曇り、雨の3つ程度
雨の中でも、たくさん降るのかそうでないのか
たいした選択はない


知りたいのは、明日、外に遊びに行かれるのか、やめておいた方がいいのかだ
30%と言われても困る
残り70%って何よ、曇りなのか、晴れるのか


さらに困るのは、「明日は晴れのち曇り、ところによっては雨が降るでしょう」
なんじゃいそれは
必ずどれか当たるじゃないですか


しかも天気予報って実質10段階評価
降水確率は32%ですなんて聞いたことがない
現在下一桁は、全く意味をなしていない
それは当たりますよという数字のトリック
だましているみたいな気がしないでもない
1割と10%は同じだけれど、10%のほうが数字の信頼性が高いからなぁ
数字をあげることで、ありえないものが現実のような錯覚になる
「人が空を泳いでいた」と言っても、ああそうですか、となるけれど
「327人の人が空を泳いでいた」と言われれば、何かの撮影ですかと、ありえるのかもしれないという錯覚に陥る


どうせはっきりした数字を表わせないならば、たまに見かける洗濯物マークで表示するなど、ああいう表示のほうがいいと思うのだ
正確な数字を出せないのにあえて0%〜100%の範囲の表示にこだわっている
それは、衛星から得たたくさんの情報を分析した結果こういう数字がでました、大変な労力をかけて正確な数字を出すよう努力しました、そんな雰囲気が感じられちゃうのだ
実際どうなんでしょ
天気図を見て、ん、雲がこの辺に来ているから、降りそうだなあ、でも、心配だから少し下げといて40%位にしときますか、みたいな感じで決めているんじゃないかなあ


配信元が異なり、各社様々な判断で天気予報をしている
衛星情報というオリジナルデータの情報は共有され、そこにそれぞれの解釈を施し価値を見出している
そこの需要があるからだと言われればそれまで
自由化が原則と言われればそれまで


でもなあ
何だか気象庁の責任逃れのような気がしないでもないんだよなあ
あんたらが勝手にしていいよ、わしもう知らんからみたいな感じで


ひねくれたような言い方だけれど
無理に自由化せず、独占しても困らない情報というものもある気がするのだ
問題は、情報が一極集中しているとき、それを適正に解釈できるかどうかの使い方だと思うのだ
まあ、それが難しいんだろうなあ



汗のかかない音楽もある度  ☆☆☆
一体何回録音したのさ度   ☆☆☆☆
笑顔のない音楽もあるさ度  ☆☆