子どもと大人の経験の違いによる考え方の差異⑤

昨日からの続き


先に言葉がある
その言葉を前提として、考え方が決まり、その繰り返しにより経験が積み重なる


そのことは日本語だと特に分かりやすいと思うのだ


例えば一人称
海外の言葉に比べ、日本は一人称を指す言葉が多い
私、俺、僕、わし、あたい、わちき、おいら、わたくし、わっし、…
二人称もそうだ
君、お前、そなた、そち、あんた、お主、てめえ、貴様、われ、…
数秒で思いつくだけでもこれくらいすぐ出てくる
まじめに考えたら、もっとたくさん出てくる


儒教の考え方が広まった日本の歴史において、個々の考え方よりも、家を重んじ、他者との比較を無意識にさせられている
出る杭は打たれるとよく言われる
オレがオレがの自己主張をしても、ああそうですか、自分はこう考えますではなく、他人と比較され、出ていればその杭は打たれる
それが良いのか悪いのかは別として、そんな日本の風習も多少は影響しているのかもしれないけれど、コミュニケーションの際には他者との関係をとても意識しているのだと思う
自分の意思を相手にどれだけ伝えることができるのかではなく、自分が発する言葉で相手が自分のことをどう思うのかを意識する
言葉そのもののベクトルは、相手のみならず、自分にも向けられている気がしてならない
伝える相手方をどう評価するかではなく、自分の言葉で自分がどう評価されるかを無意識に考えているのではないか


それゆえ、対話者との関係で、他の国以上に複雑に、人を表す言葉を使い分けているような気がする


言葉を覚えていくことで、相手に対し、どの言葉を使うか考え、それを使うことで相手との関係を作り上げる


まず言葉ありき
新たな言葉を使うことで、新たな自分の思考回路が形成され、自己の経験を作り上げていく
もやもやしていた頭の中が、その言葉によって固定され、その言葉を出発点として、新たな考えが形成される
そういうものもあるのではないか


そうであるとすれば、子どもと大人の考え方の違い
それは単に言葉をどれだけ覚えたかの違いに過ぎないのではないか
覚えた言葉の量による経験の積み重ねの度合いの違い
子どもと大人にはそれだけの違いしかないのではないか


子どもも大人も、自分が今持っている言葉の中で、精一杯の考えをしていることはきっと同じだと思うのだ
決して「まだ子供だから○○〜」ということはないと思うのだ
だからこそ大人であればでてこないであろう言葉を発言をする子どもがいても、それは間違っているとか、思慮が足りないとか、そういう筋合いのものではないと思うのだ


子どもと大人の経験の違いによる考え方の差異
言葉自体が考え方に影響を与え、経験を育んでゆく
考え方の違いは言葉の量の違い
それは、このような点にあるのではないか


公園で見かけた母親が子供を子供扱いしかしないことを見て、ふと疑問に感じて考えが膨らんだ


こんな切ない顔して歌っていたのか度  ☆☆☆☆☆
優しさあふれる弾き語り度       ☆☆☆
静かな闘志が語りかける度       ☆☆☆☆