情報取得手段としてのテレビ
情報取得手段としてのテレビに対する漠然とした不安
雲のない澄みきった空を見上げ、深呼吸して今日も考えた
それは、昨日まで考えていたテレビの情報伝達力の強さなどのマイナス要素のみから湧き出るわけではない
情報伝達手段の強さにはプラスの要素もあるのだから
ではなんでだろう…
…下書きして数時間経過…
誰もいない暗い雑多な部屋の中に、小さなブラウン管のみが付いている部屋をイメージしてみた
すると少しだけ不安の輪郭がはっきりしてきた
そこにはもう一つの<実世界>が写し出されていた…
そう、<空想の世界>である映画とは違う<実世界>を写し出すパンドラの箱…
活字、それは、読み手が何を読みたいかを決めて読む
読みたくなければ、他の記事を見るか、閉じればいいだけ
与えられた情報に対して、読み手が積極的に取捨選択をして読むことができる
テレビ、それは見る側が何を見たいかを決めて見るには限りがある
見たくなければ、チャンネルを回すか、電源を切るだけ
積極的に見たいという記事を見ることは難しい
与えられた情報に対して、見る側が受動的に見るしかないという面が少なからずある
活字、それは読みながら、頭で映像を思い浮かべ、自分の言葉に読み替えて理解に努める
テレビ、それは見ながら、そのままダイレクトに映像が押し付けられ、脳裏に焼き付いていく
この二つの違い
情報が自分のものになるまでに、一度自分の頭で考えているというプロセスがあるかどうか
テレビは、会話と違い、一方的に相手の話を聞くことになる
ただ情報を受け入れるために
まるで会話をしているかのようにリアルではあるけれど
見る側に、決してその主体性はない
そういうものだと意識して見ている限りではいいのだけれど
いつの日か、それに気付かなくなり、情報を受動的に受け入れているだけなのに、それが自分で経験したかのように錯覚し、無意識に自己の意見としていることがでてくるかもしれない
あくまでも聞いた話、見た話にしかすぎないのに、さも自分で体験したことのように錯覚を起こしかねない
伝聞が、いつのまにか事実となる
それは怖いことだ
テレビを情報取得手段とすることの漠然とした不安
活字との違いは、主体性の入り込む余地があるかどうかにあると思う
気付かないうちに考える力を失う
それだけでなく、積極的な情報取得の意欲を失わせていることに気付かない
そのテレビで得られた情報が、つもりつもって「常識」となる
もちろん、不安も多々あるけれど有用性は多い
テレビには、ちょっとした不安もあるのだと、頭のすみにでも置いておけばそれていいのだと思う
活字にしていたら、モヤモヤがちょっとすっきりした
笑顔がステキ度 ☆☆☆
優しい微笑み度 ☆☆☆
笑ってりゃいいことあるさ度 ☆☆☆