自転車好きなのはなぜなのだろう
自転車は物心がついた頃から好きだった
最初に買ってもらった三輪車から、いろんな自転車を乗り継いできたけれど、乗ってきた自転車は全部覚えている
ウインカーがついたものもあった
がむしゃらにこいで50km/hで頭から落車したこともある
骨折も2度あるし、1日記憶喪失になったこともある
いろいろあったけれど、それで嫌いになったことはないし、乗るのに飽きてくることもない
今だに時間の許す限り乗っていたいという気持ちがある
どうして自分は自転車が好きなのだろう
車も好きだしオートバイにも乗る
タイヤがついているものは大好きだ
けれどもそんな中でも自転車は別格だ
車と異なり風を切るスピード感を肌で感じることができるというのも確かにある
しかしスピードだけならオートバイの方が速い
自分にとって自転車のスピードはおまけだ
ランニングするよりも速く、エンジン付きよりも遅い
そんな中間のスピードが心地よい
なぜそのくらいのスピードが心地よいのだろう
子供の頃からの学校での生活から現在の仕事の日常まで、1日の多くの時間は椅子に座っていることが多い
そこでの景色は止まっている
体を動かしているとそんな日常の景色が変わることになる
新しい風景が次々の目に映る
景色が変わればそこで何かを感じる
意識的にせよ、無意識的にせよ
脳の神経はその動きに対応する
人は言葉で物事を考える
言葉がなければそもそも考えるということはできない
感じることしかできない
考えるということと感じるということの違いはそこにあると思う
普段と違う風景に出会うことで何かしら違う何かを感じる
それが意味をなさない抽象的なものであることが多いけれど、そこには数々の本能が垣間見えると思う
何かをしようとか、こうありたいとか、そう言ったものではなく、ベクトルを持たないピュアな感覚
そんなピュアな感覚こそが本能だと思う
一般的な何かをしようとか、こうありたいという希望が含まれるものは、何かしらの過去の経験を土台にした気持ちであって、それ自体では成り立ちえない
それは本能ではないと思う
人の本能とはそういった過去の経験から離れたピュアな感覚だと思うのだ
人は視覚から多くの情報を得る
普段止まっている風景とは異なり、動いている風景を見ることで、普段とは違うピュアな何かを感じている
普段の生活
それは言葉の中で生活し、言葉で物事を考え、人とのつながりの中で生きている
そこは本能ではなく、社会生活を営む上で必要となる理性というものの中で暮らすこが必要となる
しかしそこで言葉を必要としない、本能的なピュアな感覚
それを感じることができるとき、人は改めて無意識に自分の内面を振り返ることになる
普段の自分の中にあるのだけれど、決して顕在化はしない感覚的なもの
景色が動くことで言葉の世界では感じることができない何かがそのとき現れる
今書いているこの文章も、感覚で持っているものが言葉にならず、モヤモヤしている部分があるけれど、言葉で打ち込むことで今のこの感覚はこういうものかもしれないと次々と文章が繋がっていく
それは感覚が言葉により理性になるから
景色が変わる楽しさは普段味わう事のない感覚を体感できることにある
自分の何かしらの本能を感じることができる
歩いても景色は変わる
車でも飛行機でも変わる
ではなぜ自分は自転車が好きなのだろう
なんだか考えていうちに長くなってきた
また明日続きを考えよう
今日の一枚
GARYFISHERに憧れて29erに乗り続けたはいいものの、ディスクブレーキのマウントにクラックが入り、フレームはオシャカに
その代わりさすがTREK
フレームの生涯保障でフレームだけ新しいものに
残念ながら好きな赤色ではなくなってしまったし、FISHERブランドも消えてしまった今、数少なくなった赤のFISHERバイクの写真
GOOD BY PARAGON